選評

『雪沼とその周辺』(新潮社)

  • 2018/01/16
雪沼とその周辺 / 堀江 敏幸
雪沼とその周辺
  • 著者:堀江 敏幸
  • 出版社:新潮社
  • 装丁:文庫(206ページ)
  • 発売日:2007-07-30
  • ISBN-10:4101294720
  • ISBN-13:978-4101294728
内容紹介:
小さなレコード店や製函工場で、時代の波に取り残されてなお、使い慣れた旧式の道具たちと血を通わすようにして生きる雪沼の人々。廃業の日、無人のボウリング場にひょっこり現れたカップルに… もっと読む
小さなレコード店や製函工場で、時代の波に取り残されてなお、使い慣れた旧式の道具たちと血を通わすようにして生きる雪沼の人々。廃業の日、無人のボウリング場にひょっこり現れたカップルに、最後のゲームをプレゼントしようと思い立つ店主を描く佳品「スタンス・ドット」をはじめ、山あいの寂びた町の日々の移ろいのなかに、それぞれの人生の甘苦を映しだす川端賞・谷崎賞受賞の傑作連作小説。

谷崎潤一郎賞(第40回)

受賞作=堀江敏幸「雪沼とその周辺」/他の選考委員=池澤夏樹、河野多惠子、筒井康隆、丸谷才一/主催=中央公論新社/発表=「中央公論」二〇〇四年十一月号

五感の働き

『雪沼とその周辺』に収められた七つの短篇の底でたえず鳴っている主調音は、人間の五感の働きである。人の一生を、その人の、ある瞬間の五感の働きから描出しようという力業の連続。それがことごとく成功しているのはみごとな眺めだ。

たとえば、冒頭の「スタンス・ドット」。五レーンしかない小さなボウリング場の最後の営業日の最後の客(といってもトイレを借りに寄った若いカップルだが)の投げるワンゲームの中に、ボウリング場主人の半生が肌理こまかに、それもきびきびと織り込まれている。こんな離れ業(わずかの枚数で半生を描くこと)を成り立たせているのは、ここでは主人の耳である。彼の脳裏にしまいこまれている、むかしあるプロボウラーの投げた球がピンを弾くときの音、それは、〈レーンの奥から迫り出してくる音が拡散しないで、大きな空気の塊になってこちら側へ匍匐してくる。ほんわりして、甘くて、攻撃的な匂いがまったくない、胎児の耳に響いている母親の心音のような音〉で、彼はこの音に惹かれてボウリング場まで開いてしまったのだが、最後の日にその音が聞けるだろうか。作品は静かなサスペンスを孕んだまま、ふしぎな余韻をもって終わる。

こういった独特の方法で、味覚(「イラクサの庭」)、視覚(「河岸段丘」)、臭覚(「送り火」)などを影の主人公にした短篇が積み重ねられて行くうちに、やがて読者は、都市化の波にゆっくりと冒されて行く雪沼という地域全体の物語を読んでいたことに気づく。そこでは、〈分解して組み立てられるくらいの、単純だが融通のきく構造が、機械にも、社会にも、人間関係にも欲しい〉と願って古いものを丁寧に使い、五感を働かせる人たちと、狂奔する都会化の荒波との戦いが静かに展開しているのだが、老戦士たちにはあまり時間がない。その甘く、しかしきびしく乾いた感傷……これは魅力あふれる登場人物たちに託して、現代そのものを微苦笑のうちに浮き彫りにした傑作だ。

【この選評が収録されている書籍】
井上ひさし全選評 / 井上 ひさし
井上ひさし全選評
  • 著者:井上 ひさし
  • 出版社:白水社
  • 装丁:単行本(821ページ)
  • 発売日:2010-02-01
  • ISBN-10:4560080380
  • ISBN-13:978-4560080382
内容紹介:
2009年までの36年間、延べ370余にわたる選考会に出席。白熱の全選評が浮き彫りにする、文学・演劇の新たな成果。

ALL REVIEWS経由で書籍を購入いただきますと、書評家に書籍購入価格の0.7~5.6%が還元されます。

雪沼とその周辺 / 堀江 敏幸
雪沼とその周辺
  • 著者:堀江 敏幸
  • 出版社:新潮社
  • 装丁:文庫(206ページ)
  • 発売日:2007-07-30
  • ISBN-10:4101294720
  • ISBN-13:978-4101294728
内容紹介:
小さなレコード店や製函工場で、時代の波に取り残されてなお、使い慣れた旧式の道具たちと血を通わすようにして生きる雪沼の人々。廃業の日、無人のボウリング場にひょっこり現れたカップルに… もっと読む
小さなレコード店や製函工場で、時代の波に取り残されてなお、使い慣れた旧式の道具たちと血を通わすようにして生きる雪沼の人々。廃業の日、無人のボウリング場にひょっこり現れたカップルに、最後のゲームをプレゼントしようと思い立つ店主を描く佳品「スタンス・ドット」をはじめ、山あいの寂びた町の日々の移ろいのなかに、それぞれの人生の甘苦を映しだす川端賞・谷崎賞受賞の傑作連作小説。

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初出メディア

中央公論

中央公論 2004年11月

雑誌『中央公論』は、日本で最も歴史のある雑誌です。創刊は1887年(明治20年)。『中央公論』の前身『反省会雑誌』を京都西本願寺普通教校で創刊したのが始まりです。以来、総合誌としてあらゆる分野にわたり優れた記事を提供し、その時代におけるオピニオン・ジャーナリズムを形成する主導的役割を果たしてきました。

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