書評

『南海漂泊―土方久功伝』(河出書房新社)

  • 2017/11/29
南海漂泊―土方久功伝 / 岡谷 公二
南海漂泊―土方久功伝
  • 著者:岡谷 公二
  • 出版社:河出書房新社
  • 装丁:単行本(214ページ)
  • ISBN-10:4309221777
  • ISBN-13:978-4309221779
内容紹介:
昭和初年、文明の生活に絶望してひとり、ミクロネシアの孤島へ旅立っていった彫刻家土方久功の自由で熱い生涯。

無人称の声

夜を徹して、右か左か、東か西かの熱い議論を戦わせる。果ては殴り合いになり、刃傷沙汰の血が飛んだ。だれしも青春の一こまとして身に覚えのありそうな場面である。ついでに、そこにちいさな空白のようなものが居合わせたのも憶えていよう。目立たない男。どうしてここにいるのかさえはっきりしない。ひょっとするとバカなのかもしれない。やがて青春が過ぎ、右か左かの争点そのものがご破算になる。しかしその男だけはまだいた。人びとが右と左、東と西しか見ていなかったときに、彼は南北を見ていた。横軸が消えても、彼だけが縦軸みたいに垂直に無傷にのこった。ああ、そうだったのか。

土方久功。父親の長兄は明治の元勲、父はドイツ帰りの砲兵大佐。その次男坊に生まれて、小さいときから「自分を殺す」ことに馴らされた。学習院入学。家族も友人知己も近代日本のエリートぞろいなのに、当人だけはわざとのように出遅れ、いつも半歩おくれてパッとしない。美校で彫刻を学び、かたわら従兄弟の土方与志の築地小劇場の設立を助けた。だれもがそのまま築地小劇場に参加すると思っていたのに、突然南方に消える。「自分を殺し」すぎて、ついに日本から消えてしまった人のように。

消えたと思った人は、じつはミクロネシアの島々を回ってぼう大な民族誌的資料を採集し、スケッチをとり、島民に木彫を教えていた。同時になにもしなかった。「何千何万年来 生きて死んで来た虫けらの大もの」どもである「土人」と夜の浜辺にねころんで星をながめた。その間に近代日本は背中に火がついたような時間に追われて戦争に突入し、彼のねころんでいた南まで押し寄せてくる。しかしそれも所詮、東西対立の論理からの南下である。最初からオリてなにもしなかった男と、躍起になって立ち回る近代日本のすれちがいの喜劇が、それだけあざやかに浮かび上がる。

といって著者は別段、近代批判などと大上段に振りかぶってはいない。土方与志をはじめ、中島敦、柳田国男、とそうそうたる近代日本の代表選手が登場しながら、それだけ主人公の影が「自分を殺す」ように薄くなってゆき、あげくはこの個人伝記の全体がどこにも強調点のない浅彫りの浮彫のように仕立てられて、神話の語りのような無人称の声が聞こえてくる。『島の精神誌』以来の、この著者ならではの年季の入った「南」オマージュである。

【この書評が収録されている書籍】
遊読記―書評集 / 種村 季弘
遊読記―書評集
  • 著者:種村 季弘
  • 出版社:河出書房新社
  • 装丁:単行本(268ページ)
  • ISBN-10:4309007767
  • ISBN-13:978-4309007762

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南海漂泊―土方久功伝 / 岡谷 公二
南海漂泊―土方久功伝
  • 著者:岡谷 公二
  • 出版社:河出書房新社
  • 装丁:単行本(214ページ)
  • ISBN-10:4309221777
  • ISBN-13:978-4309221779
内容紹介:
昭和初年、文明の生活に絶望してひとり、ミクロネシアの孤島へ旅立っていった彫刻家土方久功の自由で熱い生涯。

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初出メディア

朝日新聞

朝日新聞 1990年10月14日

朝日新聞デジタルは朝日新聞のニュースサイトです。政治、経済、社会、国際、スポーツ、カルチャー、サイエンスなどの速報ニュースに加え、教育、医療、環境、ファッション、車などの話題や写真も。2012年にアサヒ・コムからブランド名を変更しました。

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