前口上
最強の女について書いてみたいと思う。だが、最強の女とはそもそも何を意味するのだろう?
現代的な基準だったら、案外、簡単である。美人で、スタイルがよくて、聡明で、仕事がバリバリできてetc.いろいろあるだろうが、私に言わせると、こういった現代的な条件には何かが決定的に欠けている。
こう書くと、必ず次のような答えが出てくるはずだ。「わかった。男からモテなければいけない、でしょう」
そう、たしかにそれはそうなのだが、私の考えでは、「男からモテる」だけでは「最強の女」とは言えない。たんにモテるだけでは、つまり、そこらへんのどうでもいい男にいくらモテても価値はないのである。価値があるのはその時代の最高の男にモテることである。それも、一人だけであってはいけない。その時代最高の複数の男たちから言い寄られ、しかも、そのうちの何人かとは深い関係になっていなくてはならないということだ。
すなわち、女の価値は、深い関係になった男たちの価値の「総和」による、という観点を導入してみたいのである。深く付き合った男たちがどんな価値の男たちであったか、それによって女の価値も決まるということだ。
もちろん、フェミニズム的観点からは、こうした価値の測り方それ自体が男性至上主義によるものだと非難されるかもしれない。男との関係なんか一切なくても女の価値は測れるのだという考え方である。
たしかに、それも一理ある。とりわけ、近い未来において女が完全に男と同権となり、同じように現実に立ち向かうような時代が来たのなら、この価値観のほうが正しいということになるだろう。
だが、男性至上主義がまかり通っていた過去においてはそうはいかない。というのも、そうした過去においては女の価値は「受け身」を前提にして測られていたからである。「自己主張しない」ことにプラス・ポイントが置かれていた点では、日本も欧米も変わりはない。女性は、結婚前も後も、「家庭の天使」として父親や夫を支えるのが理想だとされた。女性の自由が比較的許されていたフランスにおいてさえ、自らの意志において多くの男性と交際した女性は淫婦扱いされた。
ところが、そうした風潮の真っ只中にあって、こうした価値観を断固として認めず、「わたしは付き合いたい男と付き合うの。そのことでだれからも文句は言わせないの」とばかりに、多くの男たちと交際し、そのなかから自分のお眼鏡にかなった選りすぐりのエリートだけを恋人・愛人、ないしは夫とした超例外的な女性が現実にいたのである。
とりわけ、サロン文化という伝統があったために、既婚の女性が男性と付き合うことが公的に認められていたフランスにおいては、こうした自分のイニシアティブで男を選択した女たちがすくなからず存在していたのだ。
そして、そうした「自主的基準で男を選ぶ女」の中から、ときとして、恋人、愛人、夫の名前を並べるとその時代の有名人の名鑑ができあがるような「最強の女」が登場したのである。
と言っても、彼女たちは娼婦では決してない。「付き合った男たちの価値」を取り去ったとしても、言いかえると、彼女たちはいっさい男たちと付き合わなかったとしても十分に価値のある女、つまり、現代的な観点から見た場合にも、偉大な業績を残した価値ある女たちなのだ。
ひとことで言えば、彼女たちは、自らの価値において自立しているばかりではなく、その価値にほれ込んで次々に言い寄ってきた男たちの価値においても卓越している二重の意味でのスーパー・ウーマン、ようするに「最強の女」なのである。
だが、本当にそんな「最強の女」がいたのだろうか?
これがいたのである。それも一人ではなく、複数の「最強の女」が。
というわけで、本書では、単独でも「すごい」が、関係のあった男たちを並べるともっと「すごくなる」女たちを何人かとりあげて、その列伝を書いてみたいと思うのである。