書評
『批評メディア論――戦前期日本の論壇と文壇』(岩波書店)
特異なキャラ消費システム
気鋭の、という表現がしっくりくる新人の登場である。著者は批評史という一ジャンルに、ほとんど誰も着手せずに看過していた巨大な鉱脈を“発見”した。それは批評アーカイブの風景を一変させる「コロンブスの卵」だった。まずはその斬新なアイディアに拍手を送りたい。加えて、文体が新しい。短い断定を重ねながら高速で転轍(てんてつ)していくそのスタイルは、主張の骨格が明瞭なこととあいまって、恐ろしくリーダブルだ。次いで視点が新しい。この著者は、作家や批評家の内面や思想、あるいは主張など一顧だにしない。ちりばめられた無数の固有名は、論壇ネットワークを構成する結節点(ノード)にすぎない。その要所要所に、大宅壮一や小林秀雄といった巨大な「ハブ」が配置される。その上で著者は、日本における批評文化の特異性は、このネットワーク(=アーキテクチャ)の自律的作動からの産出物に過ぎない、と断ずるのだ。
ならば「特異性」とは何か。評者自身、日本の言論界を眺めていて、ずっと不可解だったことがある。その筆頭は「論壇時評」と「座談会文化」だ。その是非はともかく、これらはほぼ日本固有の文化である。あるいは批評文化の“副業性”。経済学者や社会学者、果ては脳科学者や精神科医までが文芸批評を手がけて“文壇デビュー”すること。自分を棚上げにして言えば、こういった事象もかなり日本に独特だ。この文化はどこに由来するか。
本書を読むことで、以上の疑問は氷解する。
論壇時評は、まずレジュメ的な情報整理を提供する装置として発達した。それは「現実についての言説」ではなく「言説についての言説」として広く受容され、“批評の批評”という、わが国に広く見られる特殊な批評スタイルの定着に寄与したのである。
座談会文化についてはこう説明される。「特定の負荷を帯びた固有名と固有名とを強引に連接させること、それが座談会の主な機能のひとつだった」。そう、そこで何が語られたかは問題ではない。人気のある言論人や作家の名前、その組み合わせの妙を楽しめればそれでいいのだ。
著者はこれを「固有名消費」と名づけるが、要するにキャラ消費である。だとすれば、「論壇」も「文壇」も、現代におけるAKB48とほとんど同型の、キャラ消費システムとして成立していたことになる。座談会はさしずめライブ、作家の講演会は握手会と大して変わらない。
“副業性”についてはどうか。著者は1930年代に、文壇の境界域が一気に拡散したとみる。その主犯は「小林秀雄」だ。高度な専門性がなくても人気批評家になれるというロールモデルを、彼が示してしまったのだ。以後、少しでも目立った固有名は、たちまちこのキャラ消費システムに取り込まれるという慣例ができて現在に至る。新居格(にいいたる)の名言、「意味の深(ふ)かい無変化よりも、意味のない変化を愛する」、これこそがキャラ消費の真髄なのである。
コンテンツよりもアーキテクチャ。批評家の主体性よりも、その言説を流通させた環境要因を重視すること。ゼロ年代以降、こうした発想そのものは、すでに濱野智史『アーキテクチャの生態系』や福嶋亮大『神話が考える』において実装されていた。これは遡(さかのぼ)れば、著者も確実にその影響下にあるであろう哲学者・東浩紀の批評スタイルでもある。本書こそは、この“形式”の成熟がもたらした、最高の果実のひとつであろう。
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