書評
『トマス・ピンチョン全小説 重力の虹』(新潮社)
行動主義の勝利予見したサイバーパンク
アメリカ文学史上、最大級の問題作として『白鯨』にも並び称される長編小説『重力の虹』の新訳が完成した。恥ずかしながら評者は初読である。それにしても、上下巻合わせて1500頁(ページ)(30万語!)という分量にまず圧倒される。さらにほぼ全てのページに厖大(ぼうだい)な脚註(きゃくちゅう)のおまけ付きだ。アメリカの大学生が「読んだフリ」をする小説ランキング一位の栄光もむべなるかな。佐藤氏の翻訳作業は構想三十余年、本格的に取り組んでから実に7年を要したという。原書の出版は1973年だが、この偉業の達成を、まずは「今年の事件」として讃(たた)えたい。「一筋の叫びが空を裂いて飛んでくる」。この、あまりにも有名な冒頭の一文は、超音速でロンドンに落下するナチスドイツのV2ロケットを指している。総勢300名を超えると言われる登場人物の中心は、アメリカ軍中尉タイロン・スロースロップだ。時代は第二次大戦末期のヨーロッパ。戦時下にもかかわらず、行く先々で女性をナンパするスロースロップ。彼が女性と関係した場所には、なぜかきまってV2ロケットが落下する。まるで彼が落下地点を予見しているかのように。その秘密を探るべく、ある組織がスロースロップを監視する。スロースロップ自身もまた、謎の解明をもとめて、連合軍占領地<ゾーン>をさまよう。これが基本的なストーリーだが、本書の醍醐味(だいごみ)は、この太い幹から際限なく繁茂し広がっていく、厖大で豊穣(ほうじょう)な枝葉末節にこそ極まる。
しばしば指摘されるように、ピンチョンの描写はきわめて映像的だ。高精細度な上に、あらゆる細部にピントが合っているため、しばしば全体の状況を見失う。おそらくピンチョンは直感像(観(み)たものを写真のように記憶できる能力)資質者ではないか。加えて本作には、映像に意味をもたらす強力な象徴エンジンが搭載されており、一つの映像は自由連想のように別の映像を次々と引き寄せる。随所に差し挟まれるおびただしいテクニカルな専門用語は、意味と因果を介さずにシーンを連結していくうえで、大いに貢献している。
テクノロジーと言えば、こんな描写もある。下巻の578頁、スロースロップに父親が言う。「ヤクの危険性の認識が足りてないな。向こうの世界へプラグ・インしたまんま、帰ってこられなくなったらどうするんだ」。発表当時のカウンターカルチャーの文脈ではまだ「トリップ」といった表現が使われそうな場面だが、「向こうの世界へプラグ・イン」となると、ほとんど映画「マトリックス」の先取りである。同じく下巻に描かれる、時空を超えた父と娘の交情に至っては、現在公開中の映画「インターステラー」そのままだ。なるほど、本作がサイバーパンクの元祖と呼ばれるのもゆえなきことではない。
1970年代と言えば、アメリカではまだ精神分析が隆盛をきわめていた時代である。しかしピンチョンは本作において、トラウマやら無意識やらといった心理主義は一顧だにしない。彼が批判的に依拠するのは、パブロフの行動主義だ。もっとも「批判」は、その管理的な応用に対するものであり、人間の「心理」や「無意識」といった曖昧なものを想定しない姿勢はやはり行動主義的である。そう考えるなら、本作の記述の中に、意外なほど人物の内面描写が乏しいこともうなずける。
この視点に立つなら、スロースロップのロケット落下を見越したかのような性行動からは、“行為が意図に先立つ”ことを証明してみせた1980年代のベンジャミン・リベットの実験結果を連想せずにはいられない。いまやアメリカにおいては精神分析が衰退し、かわって主流となりつつあるのは「認知行動療法」や「応用行動分析」だ。なんとピンチョンは、現代社会における広義の「行動主義の勝利」を予見していたのである。
意味に対して情報が、物語よりもパターンが、対話よりも通信が優位に成り行く世界。この社会でシステムと一体化した人々が、それでも「管理」に抵抗しようとするのなら、どんなことが可能となるか。その回答もまた、途方もないものだ。ピンチョンは、あらゆる事物を無造作に関連づける「パラノイア」的戦略を提示する。行動主義に対抗できる唯一の狂気が、論理と理性に依拠するがゆえに「内面性」を捨象できるパラノイアにほかならないのだ。……そのような弱いメッセージが本書から発信されているのを、私は確かに聞き取ったが、あるいは幻聴だったかもしれない。
かなりの速読モードでも完読に丸一週間を費やしたが、本書の通読体験は、大げさではなしに評者の「読書」概念を変えた。それは、読書に関わるシナプス結合そのものを組み替えられてしまうような、きわめて強烈な経験だった。そう、『重力の虹』は、「文学と脳」の関係性をあらためて問い直すための小説なのだ。この、真の意味でドラッギー(麻薬的)なテキストが、この時代の多くの読者に“蔓延(まんえん)”してゆくことを願ってやまない。(佐藤良明訳)