書評

『The Lyrics 1961-1973』(岩波書店)

  • 2020/07/26
The Lyrics 1961-1973 / ボブ・ディラン
The Lyrics 1961-1973
  • 著者:ボブ・ディラン
  • 翻訳:佐藤 良明
  • 出版社:岩波書店
  • 装丁:単行本(624ページ)
  • 発売日:2020-03-29
  • ISBN-10:4000613995
  • ISBN-13:978-4000613996
内容紹介:
390曲に及ぶ全自作詞を網羅.レノンやピンチョンの名訳者による最高の対訳で贈る.
The Lyrics 1974-2012 / ボブ・ディラン
The Lyrics 1974-2012
  • 著者:ボブ・ディラン
  • 翻訳:佐藤 良明
  • 出版社:岩波書店
  • 装丁:単行本(608ページ)
  • 発売日:2020-03-29
  • ISBN-10:4000614002
  • ISBN-13:978-4000614009
内容紹介:
390曲に及ぶ全自作詞を網羅.レノンやピンチョンの名訳者による最高の対訳で贈る.

ALL REVIEWS経由で書籍を購入いただきますと、書評家に書籍購入価格の0.7~5.6%が還元されます。

ディランと背景に密着した究極の訳

二〇一六年十月、ノーベル文学賞受賞者が発表されたとき、ある新聞社の会議室でその時を待っていた、私を含む何人もの人々の口から思わず「おおっ!」という驚きとも、感動ともつかないどよめきが洩れた。ボブ・ディランというまったく予期していなかった選考結果だったのだが、その名前を聞いたとき、私は一瞬のうちに「素晴らしい!」と納得もしたのだった。

ボブ・ディランは、言うまでもなく、二〇世紀後半のアメリカが生み出した、もっとも影響力の大きな歌手である。一九六〇年代初頭から活躍を始め、アメリカの社会派フォーク・ソングやブルースの影響から出発しながら、エレキギターを使用したロックに転身した。ユダヤ人の出自でありながら突如キリスト教福音派に改宗して、初期の社会的プロテストの歌から一転して宗教色の濃い歌を作った。こんなふうに彼は半世紀以上にわたって様々な変容をとげながらも一人のボブ・ディランであり続け、歌手として生涯現役を貫いてきた。誰もが認めることだが、ポピュラー音楽の領域では、二〇世紀後半の世界を席巻した二つのBがあった。ビートルズとボブ・ディランである。

その「歌手」にノーベル文学賞が授与されたのだから、世界中が驚いた。しかし、ディランは単なる歌手ではない。自らの歌詞とパフォーマンスを、渾然(こんぜん)と溶け合わせた「ソング」として示す存在だった。授賞理由も、「偉大なアメリカの歌の伝統の中に新たな詩的表現を創造した」となっていた。ちなみにノーベル文学賞は従来、事実上、小説家や詩人だけのためのものだった。しかし、歌手のボブ・ディランの受賞の前年、二〇一五年にはベラルーシのジャーナリスト、スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチが受賞している。スウェーデン・アカデミーは伝統的な「文学」の概念を大胆に拡張しつつある。

本書はボブ・ディランが一九六一年から二〇一二年にかけて発表した歌のすべての歌詞を翻訳したものである(ALL REVIEWS事務局注:書評の対象は『The Lyrics 1961-1973』及び『The Lyrics 1974-2012』)。タイトルはあえて日本語訳せずに「The Lyrics」のままとし、歌詞の英語原文を併せて掲載した。「リリックス」とは、「抒情詩」の意味にもなるが、ここでは「歌詞」ということだろう。ボブ・ディランの歌詞は確かに、複雑で謎めいたところも多く、詩的なリズムやイメージに満ちているが、やはり紙に印刷されて読まれるべき「文学」ではなく、「歌」なのだ。

ボブ・ディランの歌詞には、これまでも片桐ユズル、中山容、中川五郎といった、ディランのよき理解者による優れた訳があるが、今回分厚い二分冊となって出た翻訳は、アメリカのポップ・カルチャーを知り抜いた佐藤良明による究極の訳と言ってもいい。それは以前の訳よりも単に「こなれた」新訳というわけではない。佐藤氏はあくまでも英語原文の韻とリズムに密着して、「ここでディランは何をしているのか」に迫っている。ぼやけた写真の焦点が急に合って、鮮明な像が見えてきた、という感じだ。例えば有名な「風に吹かれて」は、佐藤氏の解釈ではそんなに「飄々」としたものではなく、「風に舞っている」と生まれ変わり、激しい風に吹き散らされる感覚を強め、メッセージをより鮮明に伝えている。「そうさ、どれだけひとが死ねばいいんだ/もう死にすぎだとわかるまで/答えは、友よ、風のなか/風に舞っている」

他にも引用したい訳文がたくさんある。「溝で死んだひとりの詩人の歌が聞こえた/路地でわめくひとりの道化の声が聞こえた/そろそろくるぞ、むごい、むごい、むごい、むごい、/むごい雨が降ってくる」(「はげしい雨が降る」)、「人生無駄にしたくないなら/泳ぎ出せよ、沈みたくなきゃ/時代が動き出したんだ」(「時代は変わる」)、「どんな気持ちだい/帰る家がないっていうのは/知り合いもなく生きるのは/石ころみたいに転がってくのは」(「ライク・ア・ローリング・ストーン」)、「おまえとふたり/ふたりっきりだ/素敵じゃないか/こうでなくちゃ/互いをだきしめ/一晩じゅうだぜ/これでいいのだ/おまえとふたり」(「おまえとふたり」。なおこの訳詞では各行が七文字にそろっている)、「この世を政治が牛耳って/愛はどこにも居場所がない」(「政治の世の中」)。

初期のボブ・ディランは、公民権運動や反戦の時代の旗手として見られすぎたのかもしれない。しかし全貌をこのように見渡すと、彼は特定の政治的主張を超えて、一人の歌手として時代と国民を引っぱってきたのだと改めて思う。アメリカという国はトランプのような政治家を生んだが、その対極にこのような歌手=詩人も生み出した。アメリカが偉大であるとすれば、後者のおかげである。

いまボブ・ディランの歌詞を読むと、不思議と、新型コロナウイルスの時代を生きる私たちの心に強く語り掛けてくるものがある。ボブ・ディランの歌をいまこそじっくり聴きたい。いや、歌いたい。

The Lyrics 1974-2012 / ボブ・ディラン
The Lyrics 1974-2012
  • 著者:ボブ・ディラン
  • 翻訳:佐藤 良明
  • 出版社:岩波書店
  • 装丁:単行本(608ページ)
  • 発売日:2020-03-29
  • ISBN-10:4000614002
  • ISBN-13:978-4000614009
内容紹介:
390曲に及ぶ全自作詞を網羅.レノンやピンチョンの名訳者による最高の対訳で贈る.

ALL REVIEWS経由で書籍を購入いただきますと、書評家に書籍購入価格の0.7~5.6%が還元されます。

The Lyrics 1961-1973 / ボブ・ディラン
The Lyrics 1961-1973
  • 著者:ボブ・ディラン
  • 翻訳:佐藤 良明
  • 出版社:岩波書店
  • 装丁:単行本(624ページ)
  • 発売日:2020-03-29
  • ISBN-10:4000613995
  • ISBN-13:978-4000613996
内容紹介:
390曲に及ぶ全自作詞を網羅.レノンやピンチョンの名訳者による最高の対訳で贈る.

ALL REVIEWS経由で書籍を購入いただきますと、書評家に書籍購入価格の0.7~5.6%が還元されます。

初出メディア

毎日新聞

毎日新聞 2020年5月9日

毎日新聞のニュース・情報サイト。事件や話題、経済や政治のニュース、スポーツや芸能、映画などのエンターテインメントの最新ニュースを掲載しています。

  • 週に1度お届けする書評ダイジェスト!
  • 「新しい書評のあり方」を探すALL REVIEWSのファンクラブ
関連記事
沼野 充義の書評/解説/選評
ページトップへ