地下水脈的ネットワークの中心にいた奇人
歴史にはときとして人物交差点のような人が現れる。その人自身の業績もさることながら、親しく付き合ったり反目したりした人たちがあまりに多彩なので、この人物交差点を中心に据えた「交際事典」のようなものをつくったらーつの時代がまるごと浮かび上がるのではと夢想したくなるような人物である。故・山口昌男の『内田魯庵(ろあん)山脈――〈失われた日本人〉発掘』はそうした「交際事典」的な一冊だったが、山口昌男に私淑した著者は、『坪井正五郎――日本で最初の人類学者』に続いて、「書痴」斎藤昌三に目をつけた。
では、斎藤昌三とはいかなる人物なのか?
神奈川県座間に明治二〇年に生まれ、原合名会社社員時代に古本、性神、蔵書票などの収集癖に目覚め、同好者たちと『おいら』『芋蔓(いもづる)草紙』『愛書趣昧』などの趣昧雑誌を発行した後、書物展望社に拠(よ)って凝った造本の書物を世に送り出した大収集家・古書研究家と要約することができるだろう。
しかしこれでは斎藤昌三について何も語っていないに等しい。斎藤昌三の場合、彼自身よりも彼がつくりあげたネットワークこそが「作品」といえるからである。
では、そのネットワークにはどのような人物が関係していたのか?
まず、神田神保町に開いた文具店「五車堂」の客として竹久夢ニ、淡島寒月などがいる。郷土趣味(性神収集)雑誌『おいら』を主宰していたときには奇人・三田平凡寺(漫画家・夏目房之介の祖父)と趣味の解釈を巡って対立。『芋蔓草紙』ではアメリカの人類学者フレデリック・スターと親しくなり、『愛書趣味』を発行したさいには柳田泉、木村毅という在野の明治文化研究家と知り合う。それがきっかけとなり吉野作造の明治文化研究会に加わって尾佐竹猛(たけき)、石井研堂、宮武外骨といった大収集家・研究家と親しく交わる。その一方では、発禁本の帝王・梅原北明に関係し、「変態十二史シリーズ」の一冊を担当する。さらに主宰した書物雑誌『書物展望』では多くの文化人を寄稿陣に抱えるかたわら山中笑(えむ)、内田魯庵、淡島寒月、柳田國男、藤田嗣治などのいわゆる「ゲテ本」(命名・柳田國男)を刊行し、日本におけるリトル・プレス本の先鞭(せんべん)をつける。
しかし、本書がユニークなのは、斎藤昌三の自伝を批判的に読み、登場する人物の証言で裏を取るという批判点検作業の中から思いもかけぬ事実を浮かび上がらせている点である。たとえば、『愛書趣味』の寄稿者として知られた謎のダンサー花園歌子を追った章。花園歌子は明治薬専を卒業しながら新橋芸者となり、「女優派出」と「お座敷ダンス」を売りにしたパンタライ社の黒瀬春吉の影響を受けて古書・風俗研究家として売り出すが、黒瀬の客死後は作家・正岡容(いるる)の妻に収まり、黒瀬に操られた過去を告白した文章を発表する。この花園歌子に対する著者の分析はこうである。
歌子は黒瀬の死によって彼の支配から逃れたが、長い間に黒瀬によってマインド・コントロール下で生きることに馴らされてしまい、そこに安心感を抱くようになっていたとすれば、今度は正岡容といっ強烈な個性に惹(ひ)かれ、彼女自身が気づかぬままに、自然とその支配下にあったと考えることはできないだろうか
収集癖、愛書趣味、発禁本研究といった、公式の文化史には決して現れてこない地下水脈的ネットワークの中心にいた奇人の評伝にして「大正・昭和交際事典」という類例のない大労作である。