書評

『ニューヨーク・シティ・マラソン』(集英社)

  • 2018/01/22
ニューヨーク・シティ・マラソン (集英社文庫) / 村上 龍
ニューヨーク・シティ・マラソン (集英社文庫)
  • 著者:村上 龍
  • 出版社:集英社
  • 装丁:文庫(251ページ)
  • ISBN:4087494888

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表題のニューヨークシティを含めて、リオ・デ・ジャネイロ、ホンコン、ハカタ、フロリダ、メルボルン、コート・ダ・ジュール、パリ、ローマなど世界にまたがるあちこちの都市が舞台や背景になっている。この本はそんな作品をあつめているから都市小説集だといえる。だがこの都市小説という意味がとても微妙で、これがうまく話せたら、この本と、この本の作者の現在を射当てたことになりそうだ。

まず作品の舞台になっている都市は、観光用の都市ではない。街区やビルの名前や街筋の描写が出てくるのだが、たんに物語の舞台や背景の書割りの役をしているだけではない。反対に、そこに生活の歳月と眼に視えない垢を積み重ねて、そのまま朽ちる予定になっている土地人の棺桶としての都市でもない。グリム童話やアンデルセン童話になぞらえていえば、ムラカミ・リュウ寓話集の寓話の舞台や背景としての度合と質とで切りとられた都市なのだ。寓話とは何だろう。作者はじぶんで「私がある種の寓話作家」だと言っているように、『テニスボーイの憂欝』、『POST』、『走れ! タカハシ』など、瞠目すべき話体小説の作者として変貌してからの作品群は、童話というのをためらわれるから、たしかに寓話と呼ぶのがふさわしいかも知れない。いまこの本の作者の寓話の核心にあるものを挙げてみる。ひとつは性的な刺戟と反射の〈拡大〉と〈伸張〉の力価を挺子にして、イメージがつくられていることだ。ひとつふたつ例を挙げてみると、「九竜の秘密クラブではオートバイのチェーンを肛門から差し込んで口から出してみせる芸が流行っているし、犬とやったり、小便を飲んだりしなければ観光客は満足しないのだ」(「蝶乱舞的夜総会(クレイジー・バタフライ・ダンシング・ナイトクラブ)」)。「ビビアンクジラは調理場で十数人のコックから犯された後冷蔵庫に入り熱く裂けたプッシーを凍った豚肉で冷ますような女なんだ」「スカトロジストで変質者のグループと巨大な倉庫に住んでコミューンを作っている、コミューンの資金は幼児誘拐と嬰児製造でまかなわれているが、家出娘を十人ほど奴隷として飼っていて変質者に種つけさせては子供を生ませて全国に売っているわけだ、で、ギャングのくそを食ったりFBIの人肉を食ったりして……」(「パリのアメリカ人」)。こんな、いわば性の描写のイメージを〈拡大〉と〈伸張〉でこしらえた個所がたくさんあるが、これがムラカミ・リュウ寓話を寓話たらしめている核心のひとつだ。こんな風俗がほんとうか、ほんとうの誇張かが問題なのではない。ほんとうに現在世界じゅうどこの都市にでもありそうな性風俗を、性の寓話に仕上げるために、作者が使っているイメージの〈拡大〉や〈伸張〉ということが核心なのだ。ふつう文学作品が〈縮小〉と〈収斂〉によってこしらえるはずのイメージが、ここでは逆になっている。もうひとつ、強いてあげればムラカミ・リュウ寓話の核心にあるのはスポーツのイメージを、性とおなじように身体の反射と刺戟の〈拡大〉と〈伸張〉でこしらえていることだ。たとえば「フロリダ・ハリー・ホップマン・テニス・キャンプ」という作品の、妻から離婚を要求された「わたし」が、フロリダのホテルで出遇ったもとテニス選手は、テニスの習練の核心はボールを追い、そのボールを打つ自分の姿を頭で描いたイメージが、じっさいにボールを追い、それを打つ身体の動作と一致するところへ、こぎつけることなのだと説く。また「リオ・デ・ジャネイロ・ゲシュタルト・バイブレーション」のF1レーサーのニキは、酒場の女レダとレンタカーでドライブしながら、オートマチックな加速技術を教えてやる。そして、レダは暗い緑色のカマロを運転しながらかんがえる。「モタモタ走る車の中に罵署雑言の限りを叫び入れながら、カマロはリオを駆け回る。赤信号で止まる奴は運転なんかするより首を吊って死んだほうがいい、転がるボールを拾おうと道に出てくる子供はボールと一緒に空高く撥ね飛ばすべきだ、買物袋から落ちたオレンジを追い駆ける老婆は礫き殺されたくてしようがないのだ。舗道を歩いている観光客はシャツの裾を引きちぎってリオがどんな町か思い知らせてやらなくちゃ、カーブでスピードを緩めるワーゲンなんてお尻をつぶしてやる、車間距離をニメートルもとってる車なんて手榴弾を投げ入れてやりたいわ」(「リオ・デ・ジャネイロ・ゲシュタルト・バイブレーション」)。これがスポーツのイメージを寓話にこしらえ上げるためにやっている〈拡大〉と〈伸張〉の描写法にあたる。

このふたつの核心から残酷とスピードの像をもったムラカミ・リュウ寓話の宇宙がつくりあげられている。そしてこんどは、なぜこれが寓話であって、ただの物語ではないのかが問題になる。寓話というからには、文脈として過剰な様式化の強度がどこかにあるはずだ。それにともなって教訓(このばあいは教訓を破壊したい教訓だが)がどこかにあるはずだ。どんなよだれが出そうな教訓も、現在では、たちまちのうちに停滞し、人間の自由な感性の足をひっぱる枷に転化し、つぎに、反教訓に陥ちこんでしまう。この速度に盲いたときは、ほとんど絶望的な場所に陥ちこむほかない。これに対し、絶望を免れる方法はありうるか。ひとつは教訓にたいしてまったく中性な、無関係な物語を作り、その世界に籠城することだ。もうひとつはいま流布されている教訓を破壊することだ。このムラカミ・リュウ寓話集はその破壊をやり遂げるために、性とスポーツの幻想が通底し、おなじになる場所をさがしだして過剰な様式化と、破壊は教訓だというイメージをこしらえようとしている。

この本のなかでは「フロリダ・ハリー・ホップマン・テニス・キャンプ」や「メルボルンの北京ダック」のような、わりにさらっとした寓話以前の淡い寓話のスポーツ選手の像も愉しかったが、「蝶乱舞的夜総会」の一篇のホラー映画をみるような寓話を超えた象徴的な寓話も愉しかった。「僕」は香港のクラブのピアノ弾き、同棲している女マーヌは、いくら稽古しても踊りがうまくならないそこの踊り子。ある夜更け、おびただしく発生した羽虫の発生源をつきとめようと街へ出て、ある建物の裏側で、無数の羽虫を管から吐き出している軟体動物のような、人間の死体のような産卵体をみつける。その産卵体からとった腹髄液を脳内に注入すると、賢く活発な脳の働きが身につき、踊りが巧くなるかも知れないと、怪しい治療師に注入してもらう。マーヌは踊りが巧くなり、性的に妖艶になり、「僕」と別れるまでにいたって有名な踊り手になる。だがものすごく太りはじめ、虫の腹髄液を除いてもらおうと香港にもどってきたが、それは無理で、とうとう自殺してしまう。この寓話の羽虫の描写は鮮明な象徴のイメージにまで高められ、それとともに性と身体の刺戟と反射の〈拡大〉と〈伸張〉が、また衰減して死にいたるまでの曲線が描かれていて、作者の寓話のモチーフの核心にある、象徴が見事に描きとられている。

【この書評が収録されている書籍】
言葉の沃野へ―書評集成〈上〉日本篇 (中公文庫) / 吉本 隆明
言葉の沃野へ―書評集成〈上〉日本篇 (中公文庫)
  • 著者:吉本 隆明
  • 出版社:中央公論社
  • 装丁:文庫(387ページ)
  • ISBN:412202580X

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ニューヨーク・シティ・マラソン (集英社文庫) / 村上 龍
ニューヨーク・シティ・マラソン (集英社文庫)
  • 著者:村上 龍
  • 出版社:集英社
  • 装丁:文庫(251ページ)
  • ISBN:4087494888

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初出メディア

マリ・クレール

マリ・クレール 1987年1月

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