解説

『春の城』(新潮社)

  • 2018/02/05
春の城 / 阿川 弘之
春の城
  • 著者:阿川 弘之
  • 出版社:新潮社
  • 装丁:文庫(350ページ)
  • 発売日:1955-06-01
  • ISBN-10:4101110018
  • ISBN-13:978-4101110011
内容紹介:
第二次大戦下、一人の青年を主人公に、学徒出陣、マリアナ沖大海戦、広島の原爆の惨状などを伝えながら激動期の青春を浮彫りにする。
物語は耕二が東京の大学に入った翌年の昭和十六年夏、二度目の帰郷からはじまる。

大学の講義は期待はずれだった。友人に「エイッという風に掛け声を掛けて入って了うんだ。初めておでん屋に入る時と同じ事さ。頭がすっきりするよ」とけしかけられて吉原の大門をくぐってみたが病みつきになるほどのこともない。自分を燃やすなにかが欠けている、のである。

悪徳でもいいから、何か本当に気持を打ち込める、荒々しく立ち向って行ける、そういう対象が欲しいと思っていたが、一向に何も見出す事は出来ないでいた。

これは自由とは違う、と僕も考えた。なにかを選び取ったときに自由が生まれるが、なにを選び取ってよいのかわからないときには、まだ自由とは言えない。退屈なだけだ。一九六〇年代の僕にはもう壁もなにもなかった。いや、壁がどこにあるのかすら、わからない、と思った。

『春の城』は、ひとつの壁が用意される。智恵子である。耕二は智恵子との恋愛に、気持が打ち込める、というほどではない。むしろ智恵子のほうが積極的だった。そろそろ決めないといけない。周囲からのそうした配慮は、一種の包囲網のようなもので、とくにこの冬に入隊する伊吹との関係から考えても知らん顔で通すのも具合が悪い。家族、友人、そういうしがらみによる壁。しかし、この壁は容易に崩れるのだ。主人公の身勝手さによって。ここまでなら僕の時代でもさして変わりないかもしれない。

昭和十六年の秋。新聞に、東篠英機に大命降下、という見出しが躍った。明日、智恵子と話し合うことでなにか結論めいた気持をつくらなければ、と考えたその晩、耕二の耳の底には「よせ、よせ、よせ」という声が太鼓の音のように鳴り続けるのである。「青春は未だ長く、美しい人が沢山いて、楽しい事が一杯ある。よせ、よせ、よせ、よせ」と。智恵子とは接吻して別れた。

十二月。ハワイ奇襲攻撃で日米戦争が始まった。耕二の気持は開戦を境にしてはっきりして来た。自分たち若者の光栄ある義務と受けとめた。

「じめじめした中途半端な学生生活から、ともすれば、強烈な日光、潮の輝き、厳格な戒律、一途な献身に充ち充ちているように想像される海軍の生活へと飛躍した」のである。主人公はこうして壁にぶつかり壁と同化することで、ついに自由を獲得することが出来たのだった。

青春小説としてここまでが「明」であり、「暗」は自由の代価の支払いとして戦争がもたらす悲惨な結果とともに押し寄せる。『春の城』は青春小説からしだいに悲劇に彩られた叙事詩となって、登場人物の運命を呑み込む巨大な戦争という蕩尽の荒々しさを描いて終えるほかはなかった。これは事実だから、作者にも他の結末は選びようがない。

だがこういうことなら言える、と戦後の、"与えられた自由"によってつくられる世界への阿川さんの静かな憤慨が、主人公にこう述べさせた。少し長いけれど、引用する。

「何だか不愉快なんだ」耕二は云った。彼は新聞の記事で見る限りでは、アメリカの唱える「民主主義」も、その教える今度の戦争の意味も、戦犯の裁判も、そして双手を挙げてそれらに賛意を表しているような日本の新聞雑誌の論調も、素直に受取る事は出来なかった。然しそれなら自分がどういう立場をとればいいのか、それも彼にはよく分らなかった。

「僕は東条のような奴が殺されるの、何とも思わないし、自分達で殺してやってもいいくらいに思うよ。あいつは首相をやめた時自決すればよかったんだ。然し裁判の記事を読んでると、悪い事をしたのは日本だけのように見えるからね。そんなものかしら」

「そりゃあ君、何て云ったってひどい戦争だったんだよ。ずいぶん馬鹿な事を日本は沢山やって来たよ」石川は云った。

「そうね」耕二は云った。「僕たちはむきになってそれに加担してたわけだ。だけどアメリカとイギリスの東洋侵略の歴史をひっくり返そう、アジアをアジア人の物に還そうという理窟は、あれも悪いのかね? 西洋の国がこの何世紀かの間、武器と船と人種的優越感とを以て、自分らを富ます為にやって来た、あらゆる悪い事を、日本はああいうお題目の下で、遅まきながら始めて、それが下手な猿真似で、見事に失敗したというのが本当じゃないのかしら? 猿真似が裁判の対象になるんなら、真似を教えた本家の悪人の方はどうするのかと云いたくなるよ。漢口にいた時、小泉というアメリカに留学してた中尉が、アメリカは甘くないですよ、日本はアメリカに占領されたら完全に骨抜きにされますよって、頻りに云ってた。残虐行為だなんて、今度の戦争で一番許し難い残虐行為は何だと思ってるんだろう?」

「アッハハハ」石川は笑い出した。「君も君だな。未だそんな事を一生懸命考えてるのかね。何になるもんか。答えは簡単じゃないか。要するに、敗けたからさ」

阿川さんは学生時代から志賀直哉の文体を学んでいた。だから軽佻浮薄な表層のイデオロギーに流されることがない。一種の選球眼に似た洞察のたしかさが、より確固とした世界へ歩を進めさせたと思う。それが『軍艦長門の生涯』をはじめ、『山本五十六』『米内光政』『井上成美』などの人物評伝の傑作へと結実したのである。(二〇〇二年十一月)
春の城 / 阿川 弘之
春の城
  • 著者:阿川 弘之
  • 出版社:新潮社
  • 装丁:文庫(350ページ)
  • 発売日:1955-06-01
  • ISBN-10:4101110018
  • ISBN-13:978-4101110011
内容紹介:
第二次大戦下、一人の青年を主人公に、学徒出陣、マリアナ沖大海戦、広島の原爆の惨状などを伝えながら激動期の青春を浮彫りにする。

ALL REVIEWS経由で書籍を購入いただきますと、書評家に書籍購入価格の0.7~5.6%が還元されます。

  • 週に1度お届けする書評ダイジェスト!
  • 「新しい書評のあり方」を探すALL REVIEWSのファンクラブ
関連記事
猪瀬 直樹の書評/解説/選評
ページトップへ