書評
『なぜ、猫とつきあうのか』(講談社)
なぜ、猫とつきあうのか
これはまったく偶然のことなのだが、『なぜ、猫とつきあうのか』(吉本隆明著)を池袋西武のリブロで買い、そこから家人に「駅まで迎えに来て、どこかで晩飯を食って帰ろ」と電話して、石神井公園駅に到着したら、出口のところで家人が真っ青な顔で立っていたのだった。「どうしたの?」
「途中に、尻尾が切れた猫ちゃんがいたの!」
かくして、われわれは走った。石神井池を目の前にした我がマンションの近傍の道路に、痛ましくも尻尾が切れた黒白の猫ちゃんがさまよっていたのである。推定年齢はおよそ半年。われわれへの慣れ加減からして、確実に飼い猫であったようだ。迷い猫というより、これは捨てられた猫であろう。そして、パニックに襲われた状態で交通事故にあった、のではなかろうか。われわれは猫ちゃん(「ドンちゃん」と命名。その理由は長くなるから書けません)を、いつものようにS獣医科へ連れていった。
猫を拾う→(ほとんどの場合、負傷しているか、栄養状態が極端に悪化しているので)S獣医科へ連れてゆき入院させる→里親を探す
石神井公園に引っ越して以来、われわれは十数匹の猫を拾い、おおむね以上のパターンを続けてきたのである。わたしとしては、拾ってきた猫をわが家で飼うことに吝(やぶさ)かではないのだが、なにせ我が家には先住猫が三匹もいて、他猫の侵入を厳しく制限しているので、如何ともしがたいのである。だが、すべての捨て猫に里親を見つけてやることは、わたしの力量を超えている。というわけで、結局のところ我が家では先住家猫三匹+外猫二匹の世話をすることになったのだが、わたしの予想では「尻尾なし」のドンちゃんが三匹目の外猫としてわが家の食客となる日も近いのではあるまいか。なぜか、そんな気がするのである……。
かくして、動乱の一日が終わり、ドンちゃんをS先生のところへ預けて帰宅すると、わたしは『なぜ、猫とつきあうのか』を読んだ。
「僕はそこがかんがえ込んじゃうところなんです。自分の家で飼ってた猫が何匹か死んで、埋めましたけど、何かそのショックっていうか、悲しさっていうか、そういうの人間の場合とさして変わらない気がします。そこが問題なんだけど。それなら何度かは会ったことがあるような知人が死んだ時の悲しさと、うちで飼ってた猫が死んだときの悲しさっていうのと、どっちが悲しいんだっていったら、こっちの方が悲しいですものね。こっちの悲しみの方が切実でしょ。そうするとすごく疑問にかんじちゃうんです。何か死っていうのはそういうもんかなって(笑)」
いったん、なぜ猫を飼うのかと考えはじめてみると、ややこしい。すごく疑問に感じることが多いのに気づくのである。
猫の死の方が人間の死より悲しい、なんてことはありふれている。それは、ほんとうはおかしなことなのか。
実は、活字に書かれたつくりものの小説の中の出来事の方が、実際に起きたことより切実である、なんてことも実はありふれている。というか、文学はそのようなありふれた事実の上にのみ存在しているのである。
ここまで書いて、明け方、近くのファミリーマートに出かけたら、また捨てられた成猫を見つけた。連続である。エサをやった。憂鬱だ。
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