書評
『追悼私記 完全版』(講談社)
小林秀雄から美空ひばりまで、そして中上健次からミシェル・フーコーに及ぶ二十七名の死に際して書かれた文の集成である。著者自身が言っているように、これはそれぞれの人間論であり、それを通して吉本隆明の素顔が表れてくる文学作品でもある。文章は痛切な調べを持ち、いささかのオマージュの気分も、偽善的な哀悼の姿勢もない。そのことが、この本を彼の作品のなかでも最も美しいもののひとつに仕上げたのだ。
我が国の文学には思想との間に大きな間があいているという感じがある。それが日本の文学をローカルな底の浅いものにしている。しかし、思想の書でない文学作品がある訳はないから、理由は、思想が日本語としての表現を持っていないか、文学作品が裡(うち)に含む思想が俗であるかの二つであるだろう。
そういった文学と論壇の風土のなかで、自前の思想を持つことがいかに困難であるかは、吉本隆明に対して放たれた罵倒の言説、その通俗との孤独な戦いを続けてきた彼の足跡に明らかだろう。
磯田光一を悼む作品のなかで、彼は対話形式の主人公に、「この批評家がいなかったらスターリニストとその同伴者の政治意識と文学的純粋意識との寄合い世帯である文学世界に、おれがひき合いにされる機会は皆無だったろうな」と言わせている。
言うまでもなく、スターリン主義は自分と並び、自分と異なる他者を認めない。だから、スターリンを批判攻撃するスターリニストは今なお猖(しょう)獗(けつ)を極めている。彼は死者たちを悼みながら、人間存在としての相手の姿を適確に捕らえている。そのような鋭利な批評精神は、ひばりについて、「だが彼女は疲労しても、生活の心労がどんなに重なっても、修練を手放すことがなかったと推測する。これはほんとの天才だけが演ずる悲劇なのだ」と書く。
時とともに重さと光とを増す、稀有な、最もジャーナリスティックではない作品である。
【単行本】
我が国の文学には思想との間に大きな間があいているという感じがある。それが日本の文学をローカルな底の浅いものにしている。しかし、思想の書でない文学作品がある訳はないから、理由は、思想が日本語としての表現を持っていないか、文学作品が裡(うち)に含む思想が俗であるかの二つであるだろう。
そういった文学と論壇の風土のなかで、自前の思想を持つことがいかに困難であるかは、吉本隆明に対して放たれた罵倒の言説、その通俗との孤独な戦いを続けてきた彼の足跡に明らかだろう。
磯田光一を悼む作品のなかで、彼は対話形式の主人公に、「この批評家がいなかったらスターリニストとその同伴者の政治意識と文学的純粋意識との寄合い世帯である文学世界に、おれがひき合いにされる機会は皆無だったろうな」と言わせている。
言うまでもなく、スターリン主義は自分と並び、自分と異なる他者を認めない。だから、スターリンを批判攻撃するスターリニストは今なお猖(しょう)獗(けつ)を極めている。彼は死者たちを悼みながら、人間存在としての相手の姿を適確に捕らえている。そのような鋭利な批評精神は、ひばりについて、「だが彼女は疲労しても、生活の心労がどんなに重なっても、修練を手放すことがなかったと推測する。これはほんとの天才だけが演ずる悲劇なのだ」と書く。
時とともに重さと光とを増す、稀有な、最もジャーナリスティックではない作品である。
【単行本】
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