書評
『フランダースの犬』(徳間書店)
初めの一冊
ある晩、酔った父が『フランダースの犬』の絵本を土産に帰ってきた。「開けてみなさい」といったくせに、開けて喜ぶ私の顔を見るや、「もう寝なさい。読むのは明日」と二階に追い払われた。私と妹はたいてい八時になると自分で着替えて、「お休みなさい」を言って寝ることになっていた。大人には大人の時間があるらしかった。もっとも父が寿司折などを土産に遅く帰るとき、「起きといで」と母に体をゆすられ、深夜の饗宴となることもあった。それは夢のような時間だった。きっとこの日も、喜ぶ顔だけが見たくてむりやりゆり起こされたのにちがいない。
翌朝、私はうんと早く目が覚めた。それでも明るかったから、きっと夏であったのだ。東側の窓からは朝の光がさしのぞいていた。枕元には『フランダースの犬』。本をそうっと布団に引っ張り込み、寝ている家族を起こさないように静かに絵本を眺めた。ネロとパトラッシの物語。大きな銀色のミルクの缶をのせた荷車、フランダースの村はずれから、こわれかけた風車の見える小麦畑や牧場をこえて、木靴をはいた少年と犬は力を合わせて牛乳を運ぶ。目指すはアントワープ。
そこにはフランダース出身の偉大な画家ルーベンスの聖画が教会堂に飾られている。ネロはその絵が見たい。だけれど絵にはおおいがかけられ、観覧料を払わないと見られないのだ。
「ああ、ぼく、あれが見られさえしたら、死んでもいいんだがなあ」
ネロの切望、これは子どもだけに許された生きることへの熱望である。がむしゃらに、一つことに向って子どもは突っ走る。これがしたい、あれが見たい、読みたい、食べたい、と。
その願いがかなえられない。私はネロといっしょになってルーベンスの絵が見たいと焦がれた。なろうことなら私がアントワープに行ってネロのために白い布を引きはぐって見せてあげたい。
入ったばかりの幼稚園で、先生が『フランダースの犬』の紙芝居を読んで下さっていた。話はだいたいわかっていたのだけれど、父の買ってきた絵本は、それよりずっと絵も細かく、筋も詳しかった。裕福な粉屋の娘アロアにはちょっと嫉妬した。アロアに自分を感情移入するよりは、ネロをめぐる恋仇のように感じたのだ。
幼児がそんなことを考えるのか、と思うかもしれない。でも私はベージュ色のスモックを着て刺繍つきのハンカチを胸にぶらさげた幼稚園のH君に恋情を抱いたのもはっきりと覚えている。 遠足で手をつないだり、長いすべり台をつながってすべり、小さな運動靴のカカトが触れてドキドキしたことも。図書室の、裏が緑のラシャで表が黒いサテンのカーテンに隠れた私を、いつ彼が見つけてくれるかと待ちうけていたことも。
つぶらな黒い瞳の、首筋の細そうなネロは、彼に似ていたのかもしれない。あんなに絵が上手なのに、絵の具が買えないなんて。黒と白でしか絵が描けないなんて……。こういうとき女の子の読み方はすぐ母性的、無限包容的な読み方になってしまうのか、と今思うとうんざりするくらい、私はネロに同情した。戦後九年目に生まれた私には少なくとも、ネロのような物資の不足や辛い労働は縁のないものだったが、本で出会って想像することはできた。
胸が痛む、とよく形容するけれども、こんなときは本当に胸のあたりが痛くなるものだ。アロアの父コゼツ氏に放火犯人とまちがわれたネロ、それなのに彼の財布を拾って届けたネロ。そして、絵のコンクールにはねられたネロは、ついにパトラッシとルーベンスの絵を見るのだ。そして幼稚園の紙芝居によると、絵を見た喜びに満足したネロとパトラッシは疲れてすやすやと眠り、翌朝、目覚めてまた元気に木の車を引っぱって、村に帰るはずであった。たしかそうなっていた。
な、なんということだろう。
「とうとう見たんだ!おお、神さま、十分でございます」
月の光のもとキリストを描いた憧れの名画が一瞬浮かんだとき、ネロは叫ぶ。そして犬のからだをかたく抱く。
「ぼくたちはエスさまのお顔を拝めるだろうよ――あの世で。そしてエスさまも、ぼくたちを離ればなれにはなさるまい」
あくる日、アントワープの人々は、教会堂の中で凍え死んだふたりを見つけた。ネロは青ざめた顔をし、口もとにほほえみさえたたえていた。死んでもふたりは離れず、村の人々は一つの墓に葬った。
ワッと私は泣いた。
うそじゃないか。死なないことにした紙芝居の作者も、めでたしめでたしの結末を口をぬぐって読んでくれた幼稚園の先生も嘘つきだ。私はわんわん泣いた。家の人がびっくりして起きだし、そして夏の一日が始まった。
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