前書き
『明治の革新者~ロマン的魂と商業~』(ベストセラーズ)
まえがき
萩原朔太郎は『虚妄の正義』の「商業」と題したアフォリズムのなかで、こんなことを書いている。商業は昔に於いて、一つの浪漫的な冒険だった。(中略)
彼等[商人たち]はその腰に剣を帯び、帽に空想の花束を飾ったところの、古風な浪漫的な騎士であって、商業すること自身よりも、冒険すること自身の中に、情熱の夢を持った詩人であった。
いかに諸君は、欧州の近代文化を本質している、商業主義のロマンチシズムを知ってるか。希臘(ギリシャ)のアゼンスの昔から、商業主義は自由と冒険を旗印にし、そしてスパルタの保守的な農業主義──すなわちまた軍国主義──と争って来た。そして遂に、商人等の自由思想と浪漫主義とか、欧州の近代文化を征服した。世界は新しくなって来た。しかしながら今日、いかにまた商業そのものが変わって来たか。
今日に於て商業はもはや昔の精神を失ってしまった。現代の商業は、何の冒険でもなく英雄的な叙事詩でもない。商業は、今日に於ては純粋の実業であり、ただのけちけちした、卑賤な金もうけの業にすぎない。(中略)
そこには既に何の『詩』もなく、何のロマンチシズムの精神も残ってない。今日の商業は、もはやあの『翼の生えた車輪』が表象している、昔の天才的空想性を無くしてしまった。
日本にも、朔太郎がいうように、商業が「浪漫的な冒険」であり、「詩」であった時代がある。
鎖国が解かれ、身分制度が廃され、だれもが自由に職業を選択できるようになった明治、そして、それに続く大正という疾風怒濤の時代である。
この時代においては、まったくの無一文、無一物の若者であっても、成り上がろうとする強烈な情念(パッション)さえあれば、不可能が可能になり、無から有を生ぜしめることができた。商業の世界は、大航海時代の大海原のように、あらゆる困難が待ち構えていたが、そこを巧みに乗り切る術さえ心得ていれば、巨大な金銀財宝を、文字通りつかみ取ることができた。そして、その冒険にチャレンジする明治・大正の実業家たちは、ほとんど例外なく、「古風な浪漫的な騎士であって、商業すること自身よりも、冒険すること自身の中に、情熱の夢を持った詩人であった」のである。
本書のもととなる「近代日本の起業家たち」を富士総合研究所の広報誌『Φ(ファイ)』に連載するとき、私が考えたのは、明治・大正の実業家たちを駆り立てていた、こうした「翼の生えた車輪」を明らかにすることである。つまり、政治でも、文学でもなく、商業のなかに「ロマンチシズム」を求めた彼らの心のなかをのぞいてみたいと思ったのである。
なぜなら、明治・大正の、巧成り名を遂げた実業家たちの伝記をひもといていくと、心に「浪漫的な冒険」の精神と「詩」を抱えた人物でないかぎり、語の正しい意味での革新者(イノベーター)たりえないことがわかってきたからである。たとえ、世間的には強欲で、猛烈な守銭奴に見えようとも、その強欲さ、猛烈さにおいて、一種のロマンチシズムを有していない人物でないと、実業家としては成功しえないのである。
したがって、本書は、たんなる成功した実業家たちの列伝というのではなく、心のどこかに癒しがたい浪漫的魂を抱えた「商業の詩人」たちの冒険譚として読んでいただきたいと思う。そして、そうした「商業の詩人」たちにインスパイアーされ、二十一世紀のベンチャー・ビジネスマンたちがデフレの荒波をものともせずに、ふたたび「浪漫的な冒険」の大海原に乗り出すことを願わずにいられない。
二〇一八年六月二〇日
鹿島 茂
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