書評

『フォアビート・ノスタルジー』(文藝春秋)

  • 2018/10/12
フォアビート・ノスタルジー / 石原 慎太郎
フォアビート・ノスタルジー
  • 著者:石原 慎太郎
  • 出版社:文藝春秋
  • 装丁:単行本(245ページ)
  • 発売日:2015-08-27
  • ISBN:4163903194
内容紹介:
通夜に集まった昔の仲間たち。かつて誰もが恋した美しきチェリストとの再会が、男たちの運命を変えていく。著者最後の純愛長編。

滅びの予感

フォアビートはいうまでもなくジャズのリズムのことだが、普通一九四〇年代以降のモダンジャズを指す。石原の読者なら、彼の中ではモダンジャズが、戦後日本という消費社会が生み出した文化の一面を象徴するものと捉えられていることを知っているだろう。もっと一般的に、戦後日本の文化はジャズから始まったといってもいいのだが、いずれにせよ「フォアビート・ノスタルジー」というタイトルは、そんなモダンジャズが郷愁を感じさせつつも失われていく代物になった時代、つまり消費社会が黄昏に向かう時代の物語であることを示唆している。

舞台は、バブルが弾けた頃の東京である。

六〇年代からおそらく七〇年代の終わりにかけて、主人公である辰野やその仲間たちがたむろしていた秘密クラブのような店があった。店主は江波という博打打ちの男で、店主と面識のある各界の名士ばかりが集う、客同士も独特な親密さで結ばれた特殊なサロンのような店だった。

その江波が死んだという報せが回ってきて、通夜で仲間たちが久しぶりに顔を合わせる場面から物語は始まる。現在と過去を行き来しながら物語は進んで行くことになるが、作中の「現在」はまさにバブルが崩壊したところ、象徴的なシーンで何かを予言するようにフォアビート・ジャズが鳴る。

店の常連は、音楽家、画家、幼稚園の園長である牧師、広告屋、株屋、芸能プロダクション経営者、製薬会社社長、テニスクラブとスーパーの経営者、脳外科医、登山家、映画監督くずれのゲームクリエイター、外タレの呼び屋など多士済々な、辰野にとっての「わが人生の時の人々」である。初期の常連には「ボディビルで無理して作った体をしまいには持て余した揚げ句に奇妙な自殺を遂げてしまった高名な作家」もいた。

辰野自身は建築家だが、ヨットに乗ってスキューバダイビングに出掛ける趣味の持ち主で、年齢的にも作者の一面が投影されていると見ることができるだろう。

ヒロインである久美子はチェロ奏者で、常連たち全員のマドンナだったが、なかでも辰野と登山家の西原が執心していてライバル関係にあった。西原は久美子への贈り物としてK2北壁単独登攀を賭けるという壮挙に出たが失敗し、久美子は辰野と結ばれた。

だが、しばらく親密に過ごした後、彼女は突然海外に発ってしまい、辰野は捨てられる。江波の葬式には帰国した久美子も出席しており、約十年ぶりに二人は再会を果たす。二人の関係が物語の一応の主軸なのだが、この(悲)恋物語には、石原の旧作である『火の島』のエコーが聞こえる。

辰野と久美子が南洋の大環礁で遊び、オニガマスに襲われ九死に一生を得るシーンからは、『わが人生の時の時』など作者の海をモチーフとした作品群が思い出されるし、久美子が罹る難病は『死の博物誌』中の一編「腕」にかつて登場したものだ。無頼で虚無的でいながらそれ故に人を惹き付ける博打打ち江波の造形には、『乾いた花』の主人公・村木の影が見て取れるし、フォアビートのジャズに古びた時代性を象徴させるというのも『僕は結婚しない』で試みられていたことである。

つまりこの『フォアビート・ノスタルジー』という小説は、石原が六〇年にわたる作家活動で扱ってきた、彼にとって重要であると思われる数々のモチーフを集大成し再構成した作品という性質を備えているのだ。

お馴染みの道具立てともいえるわけだが、しかし、描き出されるものはこれまでの作品とは違っている。それは滅びの予感とでも呼ぶべきものだ。

再会を遂げ、再び結ばれることになる夜に、辰野は久美子と踊りながらこんな会話を交わす。

「(略)今じゃフォアビートのジャズなんてすっかりすたれちゃったなあ」
「もうそんな時代なのね」
「あっという間だよ」
敢えて何かいいかける彼の言葉を封じるように、彼女は彼の唇に指をたててみせた。

辰野は何を口にしかけたか。書かれてはいないが、書かれるまでもなく滅びの予感である。滅びるのは、爛熟を超え衰退に向い始めた消費社会であり、ひいては日本という社会であり、同時に、もう若いとはいえない辰野とその仲間たちの未来であり、さらには辰野と久美子を待ち構えている運命でもある。

もっといえば、この予感は、石原慎太郎という作家が、長い創作活動と政治生活の末に持つに至った諦観でもあるだろう。評者がしたインタビューで、石原は本作について「これが最後の長編小説になるのかな」と話していた(『婦人公論』二〇一四年七月二十二日号)。今作はしたがって、石原が、何かしら総括として取り組んだものであるはずである。

戦後の復興後、経済成長と消費社会を背景に、価値紊乱者を自負して目映く登場した作家が、社会と個人がどんよりと滅びの予兆に覆われていく作品を書くに至ったという事実に感慨を覚えないのは難しい。石原慎太郎は、その軌跡がそのまま戦後日本と重なるという希有な存在であるだけになおさらである。

しかし一方で、登場人物の口を借りた「夢幻のごときなりだなあ」という台詞で、「最後の長編小説」ひいては戦後日本を片付けられては困るとも思うのだ。『やや暴力的に』の本誌書評で作家の樋口毅宏氏が「僕は言いたい。慎太郎よ、今こそ文芸の世界に帰ってこいと。そしてこれまで以上に、文学を殺してほしい。とどめを刺してくれと」と熱烈な叱咤激励を送っていたが(二〇一四年九月号)、まったくその通りで、「最後の長編小説」というからにはやはり、我々の価値観を再び紊乱してくれるものでないと、それなりに付き合ってきた読者として収まりが付かないのだ。それが、石原慎太郎という作家が負ってしまった宿命なのである。次作に期待します。
フォアビート・ノスタルジー / 石原 慎太郎
フォアビート・ノスタルジー
  • 著者:石原 慎太郎
  • 出版社:文藝春秋
  • 装丁:単行本(245ページ)
  • 発売日:2015-08-27
  • ISBN:4163903194
内容紹介:
通夜に集まった昔の仲間たち。かつて誰もが恋した美しきチェリストとの再会が、男たちの運命を変えていく。著者最後の純愛長編。

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初出メディア

文學界

文學界 2015年10月号

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