書評
『もしもし下北沢』(幻冬舎)
ゆるく拡散するかなしみの中の再生
突然、父親が他の女性と心中してしまった。どうやら女性が仕掛けた無理心中らしい。残された妻と娘は、怒りや悲しみ、様々な疑念や人間不信で目の前は真っ暗、人生の座標軸を見失い途方にくれる。
父親の死を乗り越えられない娘は、一家が住んでいた目黒から下北沢の狭い下宿屋に引っ越してきてレストランの仕事を見つけ、一人暮らしを始める。ところがある日、そこに母親が転がり込んでくる。最初は迷惑だったが、やがて母親が以前とは違う姿を見せはじめ、母娘の間に新たな関係が出来上がっていく。
「朝、時間がなくなりさくさくと着替える私に、お母さんはいってらっしゃ~い、と言う。それはお母さんとしてのいってらっしゃいではないのだ。なにが違うと言われても、うまくは言えない。なにかを放棄しているし、これからの自分の時間についてだけ考えている」
なにが違うと言われても、うまく言えない、という娘の戸惑いに続いて、かなり核心的な認識が述べられる。娘の背後にいる作者の認識だ。
「うまく言えない」「よくわからない」「ちょっと違う」という若い女性らしい甘やかな感性を、蜜(みつ)の香りのように振りまき、読者を招き寄せつつ、けれどさりげなく鋭い認識を提示する、それは幼さを装いつつも決して幼くはない技であり、その技は、喪失感や逡巡(しゅんじゅん)の中にある女性を描くのに、うまく機能している。
「時間が過ぎていく。今は今だ、悪夢に負けたくない。でもときたま生理的にただ負けてしまう。負けたままで、ずるっと見る景色のよさをわかるほど、大人になっていない」
揺らぎながら進む意識のプロセス、そこから得られる自己確認や発見。おそらくそのプロセスこそ、多くの読者にとっての心地よい共振になっているのだろう。
娘は下北沢で、死んだ父親とゆかりのある人たちと出会う。とりわけ二人の男性が魅力的だ。一人は父親のバンド仲間で父親に似た男、もう一人は若く格好良いライブハウスのオーナー。若い方との関係を経て痛みを共有できる中年の男に惹(ひ)かれていく。女性としての深化。
娘は少しずつ大人になっていくが、母親はいっこうに母親らしくない。
小説に描かれる母と娘の関係が、親子の絶対的な立場の違いを失(な)くして、仲間や友達の関係に変わっていきつつあるように感じられて久しい。現実に親世代の心身が昔のようには老いていないということもあるだろうが、親らしく在るより友達でいる方が、子ども達にとっても気楽なのだ、とりわけ母親と娘の関係においては。
本作の母親も娘に対して身構えず、無理心中の被害者になって死んだ父親も、どこか大人になりきれていない危うさが透けて見え、今の親は親として頑張らなくても良いのだと思えてくる、この柔らかな家族の手触り。けれど世代差も優劣も無くなった家族は、対立もなく平和に見えてはいても、いったん悲劇に襲われれば、お互い何も知らなかったことに気付かされ、そこからあらためて触手を伸ばして探り合うしかないのだ。
下北沢で出逢(であ)う人々は、他者の中に踏み込んでは来ないが寄り添ってくれる。それは下北沢という街の、微妙な癒しの力でもある。食べ物はいかにも美味(おい)しく描かれている。街も人も無常だという、ゆるく拡散するかなしみの中で、娘は新しい人生へと旅立つ。再生と成長の優しい物語。
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