選評
『謎の1セント硬貨――真実は細部に宿る in USA』(講談社)
講談社エッセイ賞(第25回)
受賞作=向井万起男「謎の1セント硬貨 真実は細部に宿る in USA」、青柳いづみこ「六本指のゴルトベルク」/他の選考委員=東海林さだお、坪内祐三、林真理子/主催=講談社/発表=「小説現代」二〇〇九年十一月号逸話でいっぱいの二冊
ときにはインターネット通信で、ときには車や飛行機で、さらには宇宙飛行士である妻との愉快な会話を通して集められた今のアメリカの逸話の宝庫――それが『謎の1セント硬貨』(向井万起男)である。たとえば、〈サウスウエスト航空の……職員たちは……ヤケにカジュアルな服装をしている。……短パン、スニーカー、ラフなシャツ、デザインも色もテンデンバラバラ〉(一三七ページ)。けれどもパイロットだけは制服を着用する。パイロットが短パンに派手なアロハで操縦桿を握っていては、乗客がイヤな気分になるだろうと、答えはわかっているが、それでも著者は質問状を送り付ける。すると、著者のこの滑稽なほどの律儀さが航空会社から含蓄に富んだ経営方法を引き出してしまうから面白い。こんな調子で集積された逸話群の中からゆっくり浮かび上がってくるのは、成熟と幼稚を合わせ持ったアメリカの姿で、これは痛快なアメリカ文明論である。あちこちにこぼれ落ちている詩情がこの一冊に好ましい深みを加えていた。音楽を扱った純文学やミステリーを、ドビュッシー研究家でもあるピアニストが、心行くままに論じたのが『六本指のゴルトベルク』(青柳いづみこ)である。作品の要約がそれぞれ巧みで大いに感心させられるが、面白いのは、たとえば舞台に出る寸前の演奏家たちのありさま。〈袖からこっそり舞台を覗くと、巨大な黒いピアノの肌がゴキブリのようにつやつやと光って見える。生まれてこの方ピアノなんて一度も弾いたことがないような気分になる〉(五二ページ)。そこで、アルゼンチンの名ピアニスト、マルタ・アルゲリッチは緊張のあまり楽屋の扉を固く閉めて出てこないときがあり、この緊張を乗り越えてこそ、ゴキブリは初めて宝石のような音を創り出すピアノに戻るのだそうだ。こうした逸話を数多く紹介しながら音楽と人生の機微に鋭く迫っており、評者には大切な一冊となった。
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