書評
『俳諧辻詩集』(思潮社)
現代詩、短歌、俳句もあるでよ
現代詩人に現代詩のことを聞くと、阪神ファンに阪神タイガースのことを聞いたり、社会党、じゃなくて、社民党のファン(なんかいないかもしれないが)や関係者が社民党のことを聞かれた時のように反応するようである。すなわち、「もう死んでるよ」。詩人はいるが詩のファンはいない、詩人ですら他人の詩を読まない、めぼしい新人が現れない、誰がどこで何をしているのか話題にもならない――というのは極論にしても、それに近い状況であることは当人たちも認めている。かつて、漢詩・短歌・俳句・現代詩といった「詩」グループは集団で走っていた。ある時、そのグループから現代詩が抜け出した。アトランタ・オリンピック女子マラソンのウタ・ピッピヒの如く。わたし、先に行くね。あんたたちは、後からゆっくり走ってらっしゃい。ピッピヒは(というか現代詩は)、独走につぐ独走。後ろを振り返っても、誰もいない。これは圧勝か、と思った瞬間。ピッピヒ(じゃなくて現代詩)が突然失速した……。ごくごく簡単にいうなら、現代詩は口語自由詩であり、短歌・俳句は定型詩である。ピッピヒ(のような現代詩)が独走を開始した時、みんな(選手も観衆も)、口語・自由の方が文語・定型より進んでいると信じたのである。
口語・自由には戦後民主主義・社会主義・革命等々が影のようにして後押しをしていた。スローガンは打倒「文語・定型・封建制・天皇制・ファシズム・家長制等々」であった。
では、なぜピッピヒ(と現代詩、それから社会主義、それから……)は失速したのか。
今年(ALL REVIEWS事務局注:本書評執筆時期は1996年)、花椿賞をとった辻征夫さんの『俳諧辻詩集』(思潮社)は春・夏・秋・冬の四つのパートに分かれ、それぞれのパートの冒頭に俳句、そしてその中の一つ一つの詩編は原則として、俳句+それを敷衍(ふえん)するような自由詩(ということは反歌といってもいい。これも古くから伝わる形式だ)という形をとっている。「鬼やんま」という詩。
房総へ浦賀をよぎる鬼やんま
(房総半島の小さな入江の浜辺にいたらね
日本髪の女性が現れたんだよ
驚いたなあ
ちがうちがう海から来たんだ
鬘(かつら)かぶって水上スキーで――
三浦半島のどこかの町からの親善使節なんだってさ
もう顔がひきつって
青ざめてんだ
鬼やんまり?
こっちは堂々たるもんさ
貨物船のデッキから見たんだが
爆音がきこえるかと思ったよ)
切ないほどに面白い。作者はこんなことも書いている。
《かたちの制約もなく、長さの制限もなく、内容は勝手放題、それに批評あるいは物語の断片と見分けがたい『散文詩』とやらもあるというではないか。そんな曖昧な文芸ってあるのかい?》
初めて、何もないと感じた時の驚き、裸一貫の寒さ、そしていまごろこういう地点に立たざるをえない無惨さ。何よりもこの無惨さがいま詩がはじまる場所のように思える。
沿道の一観衆として、拍手を送りたい。だが、わたしもまた別のマラソンランナーではあるのだけれど。