書評

『空間の経験―身体から都市へ』(筑摩書房)

  • 2022/02/07
空間の経験―身体から都市へ / イーフー・トゥアン
空間の経験―身体から都市へ
  • 著者:イーフー・トゥアン
  • 翻訳:山本 浩
  • 出版社:筑摩書房
  • 装丁:文庫(424ページ)
  • 発売日:1993-11-01
  • ISBN-10:4480081038
  • ISBN-13:978-4480081032
内容紹介:
人間にとって空間とは何か?それはどんな経験なのだろうか?また我々は場所にどのような特別の意味を与え、どのようにして空間と場所を組織だてていくのだろうか?幼児の身体から建築・都市にいたる空間の諸相を経験というキータームによって一貫して探究した本書は、空間と場所を考えるための必読図書である。
この本のいちばん根っこにある着想は、空間(スペース)と場所(プレイス)との違いということだ。著書の名前からして東洋風だから、そんな言い方をしてみると、空間という概念は近代以前には東洋にはほとんど(あるいはまったく)なかった。天空という概念で尊いもの、上方のものを指して地上と対応させる概念はあったが、拡がりを示す概念は、ほとんど(あるいはまったく)場所、いいかえれば親しさの及ぶ範囲、親族や血縁の共同性が認められる領域の拡がりによって示された。推察すれば東洋が近代以後に西欧の科学や技術をうけいれたあと使うようになった空間という概念と、場所という概念を分けてみるこの本の最初の着想は、そんなところからきている。

そこでこの本は、場所という言葉に、安定性とか親しみあるところという概念をふりあてている。著者の思いには親類縁者が集いあい、扶けあう東洋風の村落共同体のイメージがどこかにあるのかも知れない。ところでもう一方で、現代建築の立ちならぶ都市のもつ孤独な、ばらばらの生活実感や、個別にきり離された生活の仕方が、かえって自由な感じをあたえる体験が、近代以後には、東洋風の村落共同体の習俗や生活感情にとって変っていく事実がある。この都市の体験の孤独さと自由さの感じは、生活の領域の拡がりとみていけばどういうことになるか。それをこの本の著者は空間という概念にあてている。

場所という概念と空間という概念の違いと二重性の体験は、実感としていえば、とくに東洋風にはとてもわかり易い。だがこの本の特徴は実感としてわかり易いふたつの概念を、かなり緻密に解きほぐし、分析の概念とその起源にまでさかのぼって理念化しているところにある。

まず人間以外の動物だって場所の感覚をもっていて、その範囲内で食べ物をあつめたり、捕ったりし、水を飲み、生理の欲求をみたし、休息したり、眠ったりする。それは馴れ親しんだテリトリーをつくっている。こういう動物に比べると人間は三つの特徴をもっている。

(1)おなじく動物である。
(2)夢想家である。
(3)コンピュータのように冷静にじぶんの行動を分析することができる。

そこで場所の感覚も動物より複雑になるし、また空間の感覚も、(イ)神話空間、(ロ)実際空間、(ハ)抽象空間という三つの概念を混合してもつことになる。夢想家としての人間は神話空間(象徴空間)をうみだすだろうし、コンピュータのような冷静な分析家としての人間は、抽象空間の概念を作りだすし、動物としての人間は、動物のテリトリーとそれほど変らないような実際の居住の空間をつくって棲みわけ、食べ物をつくって喰べ、水を飲み、休息し、眠り、生殖するといった親しい住家や場所を営むに違いない。そこで実際空間と呼ぶべき拡がりをもつことになる。

この本の考察はさらに詳細なところにはいってゆく。

人間が空間を体験し、空間の概念を作ってゆくのは、おもに視覚を使ってのことだ。だが場所の概念が作られるには、視覚とおなじ大切さで手や皮膚による触覚が加わっている。ところで視覚や触覚以外の感覚、味覚や嗅覚や聴覚は、空間の概念を作るのにかかわっていないのだろうか。著者の言い方を再現すれば、村落共同体の自然や生活のあいだでは、たくさんの芳香がかもしだす雰囲気があった。その場所や空間を特徴づけ、その匂いでさまざまな記憶を呼びおこすことができた。現代建築が立ちならぶ都市にはこういう芳香による雰囲気は欠乏してしまった。味覚や聴覚も視覚をたすけて、わたしたちの空間体験を豊かにし、体験の違いを識別するよすがになっている。村落共同体の自然の音や生活の音は、季節ごとに変化するし、また都市の音とも違う。都市では自然の音や、個別の生活を表象する音は欠乏し、その代りに機械的な人工音や交通音などまったく村落では聴けない響きが、網目のようにとび交い、複雑な騒音を作っている。味覚もまた村落共同体の内部では、共通の味ともいうべきものが、親族や知友のつながり、血縁から血縁への伝承を作っている。都市では味覚の共通性も地域性も、おおきくいえば専門のレストランのあいだで系統づけられ、わかれてしまって、個々の日常生活の場から遊びや消費の場に移されている。

この本の特徴のおおきな柱のひとつは、この視覚以外の感覚が、わたしたち人間の場所や空間の概念の拡がりを作るのに、とてもおおきな役割を演じているという考え方にあるとおもう。わたしなどがすぐ思いあたるのは、柳田国男の民俗学がこれとおなじ考えを『明治大正史(世相篇)』のなかでやっていることだ。民俗学や人類学が一般にとっている方法なのか、柳田やこの著者の東洋風の発想のたまものなのか、たぶんこのふたつがからみあっているのに違いない。

この本の流れからいうと、ここで著者は空間を作りあげる認知の特性を、ふたつの方向から解きはじめる。ひとつは部族的な原始の社会の習性、もうひとつは乳幼児期の空間概念の作りあげ方からだ。

著者によれば、北米インディアンのダコタ族は、鳥の巣も天空の星の進路も、その他自然界にある物の動きは、円形でできているとかんがえる。そうするとその集りである空間は、円形として振る舞い、そこから抽象される幾何学的な空間の構成も円形を単位に意味づけられることになる。それと対照的に、南米インディオのプエブロ族は、空間を方形のものとして意味づけている。なぜこういう違った空間概念が作られるかといえば、はじめに未開社会では、動物のように眼に触れるものは、物の形や、形が持続した物体ではなく、ただ瞬間ごとの印象として反射的に眼に映った物のおぼろ気なイメージにしかすぎない。そして空間はこのおぼろ気なイメージの拡がりで作られたものとみなされる。たとえば円形や方形や三角形が認知されるためには、中心とそれから等しい距離にある二つ以上の場所、またふた組の対照的な場所(東西南北のような)、三つの離れた場所がそれぞれ認知されていなくてはならない。こういうことができるようになった原始的な部族になって、はじめてダコタ族やプエブロ族のような空間概念ができあがることになる。そしてそれが発達した文明社会をつくるようになるにつれて、著者によれば神話的空間、実際的空間、抽象的空間に分離できるような空間認識をもつようになる。

この空間認知の問題は、乳幼児にもあらわれる。生れたての乳児はじぶんとじぶんの外部の環境とを区別できないし、自分の五感の働きを空間のなかに位置づけることができない。生後二、三週間の乳児の眼は見えていても、きちんとした物体の像を結ばないで、おぼろ気な物の感じをみるだけだ。二ヵ月くらいたってはじめて物の像を結べるようになる。そして生後四ヵ月になっても、三フィート以上離れた拡がりの世界を眼で探ることに関心を示さない。

乳児は前後や左右に這って身体を移動させるようになって、はじめて空間の感じを与えられ、臥せた状態から上半身を起されたり、支えられて立ったりすることに慣れるようになって、垂直と水平の感じを把むようになる。空間や場所の感覚を獲得するのに、触覚や嗅覚や味覚の働きがかかわって複雑さをつけ加える最初の体験は、母親の乳房を吸うという行為だと著者は指摘している。このあたりの考察の緻密さと繊細さは、なぜかわたしにはこの本の著者が東洋系のひとであることと関係がある気がして仕方がない。この本にはそう思わせるところが、いたるところにあるのだ。乳児の空間体験がどこを起点にして拡がりをもつかといえば、母親のいる場所であり、母親が場所を変えると、またその変えられた場所が乳児の空間体験の起点になる。イギリスの子供の例で、一歳半から二歳の戸外の行動を調べたデータによると、子供たちは母親から二〇〇フィート以上は離れようとせず、そのあいだも、ときどき母親の方を振り返ったりしながら歩いてゆくと著者は記している。著者は場所の感覚は、まず母親を起点にしてはじまると言いたいわけだ。もっと極端につめていけば母親の乳房を吸うときの触覚、味覚、嗅覚の混じりあった体験を起点として場所の概念は作られてゆき、場所の概念が理念として拡大されてゆくことで、空間の概念が作られてゆくとかんがえている。

ところで、こうして作られる人間の空間概念には盲点がふたつある。著者によれば、ひとつはじぶんの方から水平に野原や丘を見わたしたり、上空の方から野原や丘を見ることには、航空写真の発達などで進歩をみせてきたが、野原の果てや丘の向う側にいる人からこちらの方をみたら、どんな風景に見えるかということでは、想像力はなにも進歩していない。もうひとつ、前後とか、正面と腹背とか、上下とかについての空間認知は発達しているが、左右の方向の拡がりについてはしばしば混同したり、錯覚したりして、空間感覚は非対称的になっている。文化空間についても、ヨーロッパ、オリエント、アジア、アフリカのどこでも右側が左側よりも優位にかんがえられている。そして著者によれば、中国だけが反対に左を尊重すべきもの、聖なるものと考える空間の価値観をもっている。

わたしたちが、もし空間的な隔たりを親疎と対応させる価値観を使うとすると、原始的なインディオのカインガング族やブッシュマンのノング族は、手足をつなぎあって眠ったり、密集して住んだりするのを好む、そして文明が発達するほど、離れた個別空間をもつのを好むようになる、と著者はいう。これは西欧の産業社会の階層の違いでもいえるものだと著者は指摘している。また先進的な社会で野外のロック・フェスティバルなどが催されると、若者たちはお互いに踏みつぶされるほど肌を擦りあわせるように密集し、踊り、熱狂的になったりするが、これは密集と拡散のアンビバレンスな欲求を喚起する文明社会の生理みたいなものだとこの本はいっている。

いよいよ最後に著者自身によるこの本の宣伝を伝えて、感想をひとこと。この本は、空間と場所についての人間の経験を系統づけ、経験の拡がり方について体系的な関係があることをある程度はっきりさせた。それが読者に伝わっていれば成功だと著者はいっている。でも、ほんとはすすんでどんな環境の設計をやるのが人間にとっていいのかという論議の方向性を、都市計画者や都市デザイナーに提供したいというモチーフもあったのだ、とつけ加えている。

わたしはこの本は緻密で繊細で東洋風の好みにあうかわりに、論議の力感が弱いという印象をもった。もうひとつ人間の可塑性というか、慣れによる環境への適応性というか、呼び方はさまざまできるが、それをどうかんがえるべきかという側面からも、空間や場所概念を考察すべきだとおもった。そうでないと不合理で不利で、どこにも取柄がないとおもわれる不毛の環境に固執して、ばあいにより血を流しあい、飢餓や、窮乏にじっと耐えたり、一見すると索漠として冷たい大都市の空間に住みつくのを固執したりといった、空間や場所についての人間の矛盾した価値観の根拠をうまく説明できない気がする。

【この書評が収録されている書籍】
言葉の沃野へ―書評集成〈下〉海外篇  / 吉本 隆明
言葉の沃野へ―書評集成〈下〉海外篇
  • 著者:吉本 隆明
  • 出版社:中央公論社
  • 装丁:文庫(273ページ)
  • ISBN-10:4122025990
  • ISBN-13:978-4122025998

ALL REVIEWS経由で書籍を購入いただきますと、書評家に書籍購入価格の0.7~5.6%が還元されます。

空間の経験―身体から都市へ / イーフー・トゥアン
空間の経験―身体から都市へ
  • 著者:イーフー・トゥアン
  • 翻訳:山本 浩
  • 出版社:筑摩書房
  • 装丁:文庫(424ページ)
  • 発売日:1993-11-01
  • ISBN-10:4480081038
  • ISBN-13:978-4480081032
内容紹介:
人間にとって空間とは何か?それはどんな経験なのだろうか?また我々は場所にどのような特別の意味を与え、どのようにして空間と場所を組織だてていくのだろうか?幼児の身体から建築・都市にいたる空間の諸相を経験というキータームによって一貫して探究した本書は、空間と場所を考えるための必読図書である。

ALL REVIEWS経由で書籍を購入いただきますと、書評家に書籍購入価格の0.7~5.6%が還元されます。

初出メディア

マリ・クレール

マリ・クレール 1988年11月

  • 週に1度お届けする書評ダイジェスト!
  • 「新しい書評のあり方」を探すALL REVIEWSのファンクラブ
関連記事
吉本 隆明の書評/解説/選評
ページトップへ