書評

『人間の由来・上 [改訂版]』(小学館)

  • 2023/07/27
人間の由来・上 [改訂版] / 河合 雅雄
人間の由来・上 [改訂版]
  • 著者:河合 雅雄
  • 出版社:小学館
  • 装丁:単行本(430ページ)
  • 発売日:1997-08-00
  • ISBN-10:4096770051
  • ISBN-13:978-4096770054
内容紹介:
ヒトをふくむ霊長類は、熱帯多雨林という舞台での適応を通じて進化してきた。 この仮説をもとに著者は、『森林がサルを生んだ』という魅惑的な名著を著し、その独自な進化論を世に問うた。しか… もっと読む
ヒトをふくむ霊長類は、熱帯多雨林という舞台での適応を通じて進化してきた。 この仮説をもとに著者は、『森林がサルを生んだ』という魅惑的な名著を著し、その独自な進化論を世に問うた。しかしその後、熱帯多雨林が、じつは毒物の森であることがしだいに明らかになってきた。つまり、豊かな食物を約束するはずの森が、危険な毒物(アレロケミックス)にみちみちていることが分かってきたのである。 天敵もなく、豊かな食物を約束してきた森というニッチ(生態的地位)を得たからこそ、サルは進化をとげ、やがてヒト化への道を進んできた、という推論に水をさす重大な難問にぶちあたったのである。しかし、サルの食性の研究から、森林とサルとが互いに助け合うことによって進化(共進化)してきた、ということもしだいに明るみに出てきた。 『人間の由来』は、こうした新たな事実の解明を踏まえながら、サルからヒトへの進化の謎に挑み、「家族の誕生」からヒトの発生という壮大なドラマを展開している。まさに日本人類学の金字塔ともいえる大著である。 本著作集収録にあたって、新たな事実を増補改訂し、より精緻で魅力的な著作に深められている。毎日出版文化賞受賞。

「家族」が成立して、初めてサルはヒトになった

もう二十年以上も前になるが、京都大学のサル学者たちの活躍が世間で注目されはじめた頃、唯物史観の羽仁五郎が、講演会で面白いことを言った。

サルは人間になりそこねた動物だから、いくら調べたってサルから人間への進化の秘密が分かるはずもない。

はたしてどうなんだろう。

このたび、戦後の京大のサル学の中心部に位置してフィールドワークと思索を重ねてきた河合雅雄が、『人間の由来』と題する大部な本を刊行した(小学館)。サル学の成果をこの題にまとめたということは、人間の由来がサルにあることを確信しているからにちがいない。

まず前提として知っておいてほしいのは、サルが人間に進化した時期は五百万年前から六百万年前のことだが、肝心のこの時期にかぎってなぜか類人猿の化石が消えており、人類進化の秘密を物で証拠づけることが出来ないということ。エテ公と人サマの間には巨大なブラックボックスがはさまっているのである。その結果、二本足歩行がポイントとか、道具を使ったとか、遺伝子の突然変異とか、大胆なのではサルが一度海に帰ってそこで人間に進化した、だからサルの中で人類だけには毛がないし、ラマーズ法による水中出産がうまくゆくとか、さまざまな説が出されてきた。とにかく言ったが勝ち。

欧米の学者たちはブラックボックスの闇の中で、思い付きと理論だけの論を花火のように打ち上げることに精を出してきたわけだが、日本のサル学者は例外的にその道を避け、なんとか実証的、科学的であろうとした。方法はただひとつ、ブラックボックスの前の方にいるサルと、後の方の人類とを比較することにより、間にはさまった巨大な闇の中を実証的に探ろうというもの。

そのためにはサルの社会を知る必要があり、すでによく知られているように、サルの一匹一匹に名前を付けて顔を覚えることからはじめ、まったく新しい研究領域を切り開いてきた。

たとえば、サルの社会の中で、性がどういう働きを持っているかについて、著者は面白い例を紹介している。もっとも人間に近いピグミーチンパンジーの雄は次のような不思議な行動を行う。

尻つけは、文字通り二頭が後ろ向きになり、尻を押し当てる行動である。その度合いが激しくなり、相互に押しくらをして前後に振れると、睾丸が揺れてぶつかりあう。これを鐘つき行動という。二頭の雄が、雌のこすりあいのような姿勢で抱きあい、ペニスを立てて、腰を左右に振りながらペニスを刀のように斬り結ぶ行動がちゃんばらである。

元来は雌相手の行動を雄同士が行うことで、サル社会に生きる雄の憲法ともいうべき順位関係をわざとあいまいにし、お互いに対等なところもあることを確認するのだという。また、雄と雌の間では、親和関係を確認する方法として生殖と無関係に交尾が行われるという。ピグミーチンパンジーは、性を本来の生殖行動から文化的、社会的行動へと変質させているのである。

どうもチンパンジーと人間の性は、その行動も意味も悦びの度合いもほとんど変わらないらしい。とすると、サルはすぐ人間に進化しそうだが、そうはいかない。サルが人間になるには、二本足で立ったり、文化的性行為を営むだけでは無理らしい。

著者はこれまでのさまざまな説の限界を観察に基づいて指摘する。たとえば道具の使用についてなら、なぜ手ごろな自然物の利用の段階で止まってしまい製作への契機が見えないのか。アリ塚を棒を使って掘ることまではしても、石で棒の先を削ってもっと掘りやすくすることはしない。石で堅い実を割ることは知っているのに。あるいは物乞い(分配)の行動はしばしば見られるのに、物の交換のレベルにはいたらない。

二本足歩行をはじめとするこれまでの諸説はたしかに有効で、サルを人の直前まで連れて来るまではうまくゆくのだが、なぜか途中伸び悩み、サルは最後の溝を跳びこすことができないのである。

自然環境の変化への対応(評者・たとえば森から草原へ進出して立ち上がった)や文化環境の創出(評者・幸島のサルのイモ洗いなど)が、ヒト化への溝を埋めることができないとすれば、ヒト化への架け橋をつくったのは何だったのだろう。いままでの議論で、ごっそり抜け落ちていたものがある。それは社会である。ここへきて、私たちは、ようやく霊長類の社会にこそ、ヒト化への秘密が隠されているのではないかと、真剣な目を向ける必要性に迫られるのである。

社会といってもいろいろの段階があるが、とりわけてのポイントは、

サル類から決別してヒトへの道を踏み出すための社会的条件は、家族の成立ということである。サル類社会の中には家族という社会単位はない。おそらく全哺乳類の中にも、それは見いだすことができないであろう。サルをヒトたらしめた根本要因は、どうやら家族という社会的単位の形成であるらしい。……道具の二次的製作、分配と分業、協同作業と狩猟といったことを相互に関係づけ、統合化し、ヒト化への道にのせる培地は、家族ということなのである。

なんだかとても胸に落ちてしまった。

専門的な内容の本だが、著者は子供向けの動物物語も書いているだけあって、文章は分かりやすくイメージも豊かで助かる。

【この書評が収録されている書籍】
建築探偵、本を伐る / 藤森 照信
建築探偵、本を伐る
  • 著者:藤森 照信
  • 出版社:晶文社
  • 装丁:単行本(313ページ)
  • 発売日:2001-02-10
  • ISBN-10:4794964765
  • ISBN-13:978-4794964762
内容紹介:
本の山に分け入る。自然科学の眼は、ドウス昌代、かわぐちかいじ、杉浦康平、末井昭、秋野不矩…をどう見つめるのだろうか。東大教授にして路上観察家が描く読書をめぐる冒険譚。

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人間の由来・上 [改訂版] / 河合 雅雄
人間の由来・上 [改訂版]
  • 著者:河合 雅雄
  • 出版社:小学館
  • 装丁:単行本(430ページ)
  • 発売日:1997-08-00
  • ISBN-10:4096770051
  • ISBN-13:978-4096770054
内容紹介:
ヒトをふくむ霊長類は、熱帯多雨林という舞台での適応を通じて進化してきた。 この仮説をもとに著者は、『森林がサルを生んだ』という魅惑的な名著を著し、その独自な進化論を世に問うた。しか… もっと読む
ヒトをふくむ霊長類は、熱帯多雨林という舞台での適応を通じて進化してきた。 この仮説をもとに著者は、『森林がサルを生んだ』という魅惑的な名著を著し、その独自な進化論を世に問うた。しかしその後、熱帯多雨林が、じつは毒物の森であることがしだいに明らかになってきた。つまり、豊かな食物を約束するはずの森が、危険な毒物(アレロケミックス)にみちみちていることが分かってきたのである。 天敵もなく、豊かな食物を約束してきた森というニッチ(生態的地位)を得たからこそ、サルは進化をとげ、やがてヒト化への道を進んできた、という推論に水をさす重大な難問にぶちあたったのである。しかし、サルの食性の研究から、森林とサルとが互いに助け合うことによって進化(共進化)してきた、ということもしだいに明るみに出てきた。 『人間の由来』は、こうした新たな事実の解明を踏まえながら、サルからヒトへの進化の謎に挑み、「家族の誕生」からヒトの発生という壮大なドラマを展開している。まさに日本人類学の金字塔ともいえる大著である。 本著作集収録にあたって、新たな事実を増補改訂し、より精緻で魅力的な著作に深められている。毎日出版文化賞受賞。

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初出メディア

週刊朝日

週刊朝日 1992年6月5日

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