自著解説

『古代の星空を読み解く: キトラ古墳天文図とアジアの星図』(東京大学出版会)

  • 2019/04/27
古代の星空を読み解く: キトラ古墳天文図とアジアの星図 / 中村 士
古代の星空を読み解く: キトラ古墳天文図とアジアの星図
  • 著者:中村 士
  • 出版社:東京大学出版会
  • 装丁:単行本(256ページ)
  • 発売日:2018-12-24
  • ISBN-10:4130637142
  • ISBN-13:978-4130637145
内容紹介:
奈良のキトラ古墳.その天井には精緻な星図が描かれていた.いったいいつ頃の星図なのか.そして何をベースとして描かれたのか——.キトラ古墳解読で生み出した年代推定法を用い,世界の歴史的星図・星表の観測時期を推定.それぞれの星図や星表にまつわる謎を読み解く.
奈良・キトラ古墳星図や世界の様々な歴史的星図・星表の観測時期を推定する統計学的手法を考案し、古代天文図の謎を読み解いた天文学者が、その思考をさらに進めて天文学の起源に迫る。書き下ろしエッセイをALL REVIEWSでいち早く配信します。

天文図の年代を「推定」するということ

奈良県所在のキトラ古墳内部の天井に、詳細な天文図が描かれていることが発見されたのは一九九八年、この古墳自体の調査開始は一九八三年からだから、もう三十五年が経過した。その間、キトラ天文図を直接、間接に論じた歴史関連の書は既にかなりの数に達している。しかし、この天文図を科学としての立場で取り扱った本は今までほとんど見当たらなかった。それが、この度、標記の本を執筆させていただいた大きな理由の一つである。

今回のキトラ天文図の調査は、舞台裏を明かせば、某テレビ局の番組作りという、あまり学問的とは言えない動機からスタートした。考古学者も含む小さな調査研究グループが出来て、メンバーに誘われた。私の研究分野である天文学の立場からは、この天文図に描かれた星々は科学的な観測に基づくものかどうかをまず知り、もしそうなら、観測年代の推定くらいは比較的簡単に片付くだろうと考えていた。

だが実際に取り組んでみると、予想に反して、現代天文学の手法が直接には適用できないことが分かり、当初はかなり困惑させられた。そのため、さまざまな試行錯誤を繰り返すことになり、漸くキトラ天文図の妥当な観測年代にたどりついた。また、キトラ天文図だけでなく、多くの歴史的な星図・星表の年代推定に統一的に適用できる統計学的手法を考案することができた。その結果として生まれたのが本書であると言ってもよい。

上記の番組作りと研究会で、筆者が何度か違和感をおぼえたのは、「中村の説によれば、キトラの星々の観測は何年頃」、という言い方をされたことである。考古学や古代美術史の立場では一般に明確な年代は出せないから、年代の推定はそれら研究者の経験と学術的背景とに基づいた“誰々の説”ということになるのだろう。他方、天文学と数理統計学の立場からは、天文図の測定データと推定の信頼度が与えられれば、誰が解析しても同じ結果になる。だから、得られた年代の数値は中村の“説”ではなく客観的事実なのである。この点、「推定」という言葉の意味合いが、文系と理系との間で大きく異なることに認識を新たにさせられた。

天文学の起源への関心

従来から、天文学は人類が生み出した最古の自然科学、精密科学であるとしばしば言われてきた。筆者が大学に入学して天文学を学び始めたのは約半世紀前で、なんとか学位論文を書き、ある研究所のプロジェクトにどうにか就職できた。この職業としての天文学はもちろん現代天文学であり、上記の数理統計学にも随分お世話になったが、その頃から、天文学の起源に対する興味が漠然と心の中に芽生え、齢を重ねるにつれて益々膨らんだ。天文学の歴史はどの位昔まで遡れるのかを知りたいという思いである。そのため、本書『古代の星空を読み解く』でも、有史以前の星座について一節を設けて考察している。しかし、神話、伝承などに基づくしか研究の材料がなく、内容が憶測や想像になりがちなことを痛感させられた。それが、以下に述べる気候学、地球物理学、考古学など、学際的な分野からの情報が天文学の起源を追求する重要な手掛かりを与えると考えるゆえんである。

筆者が習った高校の歴史教科書では、エジプト、メソポタミア、インド、中国の大河の流域で四千―五千年前に誕生した古代文明を四大古代文明と呼んでいた。近年の考古学的発掘調査の成果によれば、四大古代文明は「農業革命」と「都市革命」と称する二つの段階を経て発展したとされる。最後の氷河期が終わった約一万年前頃、近東地方にいた現生人類の祖先は、食料の採取・狩猟の目的で移動する生活を止めて初めて定住し、穀物栽培と家畜の飼育を始めたため、農業生産性が向上し多くの人口を養うことが可能になった。これが農業革命である。その後、この地域に人口が集中する都市が成立し、貧富の差と支配者・被支配者の関係、日々の生活のためだけに働かなくてもよい聖職者、知識階級が生じ、それに伴い文化、芸術、科学・哲学などの学問も生まれた。この段階は都市革命と呼ばれる。四大古代文明はそれぞれ特徴ある天文学も発達させたが、これも都市文化の一環として誕生したに違いない。

一九八〇年頃、東京大学の気候地理学者だった鈴木秀夫による『気候と文明、気候と歴史』(朝倉書店、一九七八年刊)という小冊子を図書館で偶然手にした。鈴木はこの本の中で、四千―五千年前に四大文明が大河のほとりでそれぞれ独立に生まれたと言う事実を統一的に説明する理論を展開していた。その論旨は次の通りである。

最終氷河期の後、八千-五千年前の期間、地球はヒプシサーマル期と呼ばれる高温期にあり、世界の年平均気温が現代より少なくとも約二度高く降水量も多かった。現在のサハラ砂漠もほぼ全域が緑の草原で覆われ、部分的には森林が発達した地域さえあった。ところが、文明によって多少前後するが四千―五千年前頃に、夏季の降水をもたらす汎地球的な赤道西風(熱帯収束帯に伴う湿った風で、この北側が乾燥する)がなぜか南に二千キロメートル近く移動してしまった。そのため、サハラは不毛の砂漠になり四大古代文明の地はみな寒冷化して乾燥域に変わった。考古学・古気象資料から導いた鈴木のこの大変動説が基本的に正しかったことは、米国在住の真鍋淑郎博士らが創始した大気・海洋系の大循環理論を、日射量の長年変動を考慮してコンピュータで模擬するモデル計算など(例えば、一九八八年の『サイエンス』誌に掲載されたCOHMAPグループによるレビュー論文)で裏づけられている。

それまで農作物の入手に困らなかった古代文明周辺の人々は、この乾燥化を避けて農業生産を続けるために水を求めて大河の中・下流域に逃げ込んだ。その結果、過剰人口を利用する集約的な灌漑農業が発達し、その人民を支配または外敵から保護する中央集権的な帝国や王国が出現した――すなわち、都市革命である。このように、比較的簡単な原因とメカニズムで四大文明の誕生を見事に説明する鈴木理論は分かりやすく、筆者は強い感銘を受けた。そして、特に、赤道西風の移動を世界地図上に示した鈴木の図によって、天文学が四大古代文明の地で、申し合わせたように四千―五千年前頃に誕生したこともうまく説明できることに思い至った。

科学的な天文学の発祥は、身近な天文現象に規則性、周期性があることを認識することから始まったと考えられる。筆者が住む関東地方の冬季の晴天率の高さは世界有数である。元日の朝六時前に起きて見上げると、欠けた月が南の暗い空に光っていた。翌日の同時刻には少し細くなって角度で十五度ほど東に移り、翌々日はさらに欠けてもっと東に移動している。このような連日の冬晴れは、いやでも月の満ち欠けに規則性、周期性があることを認識させてくれる――逆に、曇天続きの梅雨時には、月の存在すら意識から遠ざかる。この例からも分かるように、科学的な天文学の誕生にとって、継続する晴天の日々は極めて重要な必要条件だった。

思うに、四千―五千年前頃に始まった地球規模の寒冷化・乾燥化の際にも、まさに同じことが起こったのである。それ以前のヒプシサーマル期は天気が悪く雨の多い湿潤な気候だっただけに、寒冷化・乾燥化に伴って夜ごと空に見える月や星々とその動きは当時の古代人にとってより印象的だったに違いない。

季節に依存する農業生産と、太陽運行など天文学の誕生との関係を述べた欧米の天文学史の本は、だいぶ以前からもあった。ただし、赤道西風が発見されたのは第二次世界大戦中だから、鈴木理論に基づく筆者の天文学起源説のような見方は、戦前にはありえなかったことを強調しておきたい。また、従来から一般論として言われてきたような農業生産と天文学の発祥との関係であれば、農業革命が起こった約一万年前に天文学も一緒に生まれてもよかったはずであるが、そのような痕跡は見つかっていない。従って、やはり、四千―五千年前頃の寒冷化と乾燥化に伴う晴天率の大幅な上昇が、科学としての天文学を誕生させた大きな要因だったと筆者は判断している。

古代中国の天文学と寒冷化・乾燥化

上述した四千―五千年前頃からの寒冷化と乾燥化の証拠は、黄河流域に誕生した古代華北文明の記録にも見られる。現在でもカレンダーに注記される二十四節気は、古代中国で生まれた太陰太陽暦が実際の季節と大きくずれる欠点を補うために考案された太陽暦による目印である。議論の詳細は拙著『宇宙観五千年史』(東京大学出版会、二〇一二年、共著)に譲るが、そのいくつかの名称(例えば、啓蟄や雨水)は、最古の甲骨文が出現する三千五百年以上前の季節を表現した名前だった可能性が高い。つまり、当時の古代文明の中心地だった西安あたりの年平均気温は、現代より数度高く、雨も現在より多かったことを示唆している。

このことを具体的に明らかにしたのが、中国科学院の竺可禎だった。彼は、中国の過去五千年における種々の生物季節、気象、農学などの記録を系統的に集めて研究した(物候学と呼ぶ)。その結果、五千年前の最初の二千年間(仰韶文化と殷墟の時代)は西安地方の年平均気温は今より約二度C高かったと結論した――鈴木の推定に合致している。その根拠として、当時の遺跡からは、ノロ、バク、水牛など亜熱帯の動物の遺骨が多く出土しているが、現在この種の動物はこの地域では生息できないこと、殷代の甲骨史料には野生の象が捕獲された記事が見えること、植物化石も当時は亜熱帯性の竹や梅類が繁茂していたことを示していること、などを挙げている。

一方、戦前に一万五千点の甲骨文史料から当時の気象と降雨状況を統計的に調べたのは、米国の中国学者ウィットフォーゲルである。雨の予想や雨乞いを記した甲骨占文のうち四十三パーセントは年初の三カ月間に集中していた。これは、一月から三月は雨が降らないために雨乞いの祈願が盛んに行なわれたことを意味し、ヒプシサーマル期以後の乾燥化が進んでいたことを物語る。つまり、甲骨文が書かれた初期の殷代の数百年間が、古代中国の天文学が誕生する過渡期として非常に重要だったと考えられる。以上から、少なくともユーラシア大陸の古代文明における天文学の発祥はやはり、四千-五千年前に始まった寒冷化・乾燥化が共通な原因だった可能性が高いと言えよう。

近年の人為的地球温暖化への示唆

鈴木秀夫による古代文明の起源論を知った一九八〇年頃、筆者が注意を引かれたもう一つの話題は、当時多くの気象学者が議論していたいわゆる“異常気象”だった。今にして思えば、これは現在急速に悪化している地球温暖化の初期の表われだったらしい。気候変動の国際研究機関が発表する、例えば過去十年の温室効果ガスの排出統計などを見ていると、事態はもはや手遅れで後戻りできない時点に達しているのではないかという悲観的な印象を筆者は禁じ得ない。そうなった最大の理由は、大国や大企業のエゴイズムだけでなく、車に代表される便利で快適な生活を私たちが享受すること自体が地球温暖化を作り出しているという因果関係を一般にはなかなか感覚として理解できない点にあるように思う。今後、数十年間で、人類の死亡原因のランキングは、ガンや心臓病を抜いて熱中症が第一位に躍り出るのではないだろうか。加えて、忘れられがちなのは、人間の食料源である家畜、水産物、穀類などの植物や、水資源も温暖化で大きな打撃を受けることである。

ところで、八千-五千年前のヒプシサーマル期もやはり地球の高温期にあったことは既に述べた。もちろん、その当時の高温状態と現在の地球温暖化とでは原因、メカニズムや規模もまったく異なることは言うまでもない。とはいえ、地球温暖化の一つの指標とされる年平均気温の約二度上昇という値は、当時と現在とで数値の上では似ているから、ヒプシサーマル期前後の時代を研究することにも多少の社会的意義はありそうな気がする。

筆者は常々、天文学の起源を調べることなど実生活には何の役にも立たない単なる好奇心だと多少引け目に感じていた。しかし、上に述べたような観点に立てば、現在進行中の地球温暖化の行く末と、その結果としての人間文明の未来を垣間見るヒントくらいは得られるかもしれないと思い直しはじめた昨今である。

[書き手]中村 士(なかむら・つこう/天文学・天文学史)
古代の星空を読み解く: キトラ古墳天文図とアジアの星図 / 中村 士
古代の星空を読み解く: キトラ古墳天文図とアジアの星図
  • 著者:中村 士
  • 出版社:東京大学出版会
  • 装丁:単行本(256ページ)
  • 発売日:2018-12-24
  • ISBN-10:4130637142
  • ISBN-13:978-4130637145
内容紹介:
奈良のキトラ古墳.その天井には精緻な星図が描かれていた.いったいいつ頃の星図なのか.そして何をベースとして描かれたのか——.キトラ古墳解読で生み出した年代推定法を用い,世界の歴史的星図・星表の観測時期を推定.それぞれの星図や星表にまつわる謎を読み解く.

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