書評
『ホーキング、最後に語る:多宇宙をめぐる博士のメッセージ』(早川書房)
ホーキング最後の論文をどう読む
小さな本である。不思議な本でもある。通常書店に出回る一冊の書物としては、とてもページ数が足りない。そう全体でやっと九十ページほど。そのなかで、タイトルに見合う文章は、ベルギーの研究者(トマス・ハートッホ)との共著論文、そうです、物理学の専門ジャーナルに掲載された<A smooth exit from eternal inflation?>という仮説的な論文(ホーキングが発表した最後の論文ということになる)だけで、文献リストを入れなければ二十ページほどのもの。専門ジャーナルに掲載されたのだから、当然ながら、量子力学、相対性理論はもとより、ゲージ=重力、ホログラフィー、ド・ジッター時空、そして何よりインフレーション理論などによって組み立てられた、数式もふんだんに登場する、一般の読者にはとても歯の立たない性格のもの。しかし、考えてみたら、全世界で一千万部売れたという『ホーキング、宇宙を語る』(邦訳は林一訳、ハヤカワ文庫NF)の内容だって、むろん専門論文ではなかったが、結構歯ごたえがあり、それだけの数の人が「読んだ」とは、ちょっと想像しにくい。今回の出版は、難病に苦しみながら、宇宙論の分野に大きな刺激を与え続けたホーキングが、今年三月に他界した、という事実の上に立った、追悼出版の意味を持つ。同じ書肆(しょし)からは、すでにホワイトとグリビンの、ホーキング伝『スティーヴン・ホーキング 天才科学者の光と影』(林一・鈴木圭子訳、同)も出版されている。では本書の原著論文以外の部分はどうなっているのか。一つの重要な文章は、そもそも「インフレーション理論」(提案された時は、この名称ではなかったが)を世界に先駆けて発表し、宇宙論の領域で、国際的に最大の敬意を以(もっ)て遇される佐藤勝彦氏が語るホーキングの「思い出」である。ホーキングやその家族と親交のあった氏の、温かい人柄の滲(にじ)み出た、見事な文章は、本書の白眉(はくび)となっている。追悼式の参加資格は「二〇三八年一二月三一日生まれ」(ミスプリントではありません)までだった、というエピソードも、ウイットやユーモアを愛する故人の人間味が垣間見えて、ほほえみを誘う。
佐藤氏の文章は、ホーキングのこれまでの業績に関して、俯瞰(ふかん)的な見取り図を描くことにも傑出している。特異点定理の証明、ブラックホール蒸発理論から多次元の超弦理論を通じての展開、そして佐藤氏自身の発案であるインフレーション理論を通して、ビッグバン理論の精緻化にいたる過程が、鮮やかに再現されている。
もう一つの要素は、先述の原著論文を、素人にも判(わか)るように懇切に解説した、白水徹也氏の文章である。もっとも「素人にも判るように」とは書いたものの、評子自身、読後も、正直のところ「判りました!」とはとても言えないままの状態ではある。しかし、ビッグバンから急激な膨張をする過程(インフレーション)が、永久に続くという<eternal inflation> 仮説に伴う問題点を取り上げたこの論文を、理解するための基礎的な情報は、白水氏の解説によって、的確に与えられていることは確かで、読者は、それを土台に、自ら原著論文に挑戦してみるのも面白いだろう。
もう一つの要素は、原著論文の共著者ハートッホが、欧州研究評議会(ERC)から受けたインタビュー記事(ERCの公式サイトに掲載)の翻訳で、全体の理解の助けになるだろう。