太陽系外生命体や宇宙人の存在を予見
私事で恐縮だが、私は歴史少年かつ天文少年で、昼は古墳を巡り、夜は晴れれば、星を眺めた。だから、前方後円墳はなぜあんな形をしているのか、と聞かれれば、こう答える。諸説あるが、あれは古墳時代人の宇宙観を反映しているかもしれない。天円地方説といって「天は円形、地は方形」という古代中国製の宇宙観を一つに集約した形ではないか。そうなのである。室町時代まで、日本人に大地が球体との宇宙観(地球説)はなかった。そこへ西洋からキリスト教宣教師などがきた。織田信長には地球儀を渡し、信長はすぐに地が球体であると理解した。太陽も月も球体だ。月食の時、地の影が月面に見えるのが証拠だ。そんなふうに言われれば賢い人なら「理にかなっている」と思う。
西暦一六〇〇年頃、宣教師のマテオ・リッチが中国(明)で世界地図を漢訳し、解説に我々の居場所を「地球」と記した。この地図はすぐ日本に入った。一七〇八年には日本で「世界万国地球図」なる地図が発行され、翌年、新井白石が密入国宣教師シドッティを尋問し、後に『西洋紀聞』に「地球(テマリ)の周囲」などと書いた。この時分から、日本の知識人の一部は「自分は中国や日本を中心とした四角い『天下』ではなく、球体の乗り物『地球』にいる」と知った。日本における用語としての「地球」の歴史はせいぜい四百年だろう。
ただ本書には、そんなことは書いていない。本書が扱うのは、江戸後期の、さらに高度になった西洋「宇宙論」の日本への取り入れである。絵師の司馬江漢、翻訳家の志筑忠雄、金貸しの番頭・山片蟠桃(ばんとう)の三人が、道楽で、それをやった。
コペルニクスの地動説は18世紀後半、本木良永(りょうえい)ら長崎通詞(通訳官)の仲間内で話題になり、コペルニクスの宇宙論を紹介する翻訳書が一七九二~九三年に出現した。それから五年、十年で、口下手を理由にして通詞をやめていた志筑忠雄がニュートン力学を翻訳で紹介した。
志筑はケプラーの法則や万有引力の法則をきちんと数学的にわかっており、「分子」を造語し「真空」などを科学用語として使いだした。西洋天文学を翻訳しただけではない。志筑は「混沌分判図説」といって、天体が混沌から生まれ、時間とともに分化する独自の仮説を唱えた。宇宙の生成と進化を考える立派な宇宙論だ。ニュートン力学をふまえ、回転運動と重力から天体が生じるさまを見事に言いあてた。西洋では、カントがガスの星雲から太陽系が誕生したとの星雲説を唱え、ラプラスがそれを精密にしたが、志筑はラプラスより三年早いという。志筑の思考は見事で、進化宇宙論の分野では、世界の先端を走っていた。
こうなると、ふつうに大坂の金貸しの番頭のなかにも、すごい人間が出てくる。山片蟠桃だ。山片は大地が球状な理由を重力の働きから説明した。「宇宙には太陽のような星が幾百万もある」。「恒星は皆明界を持ち」その中には「地球に似ている」惑星があって「土があり湿気がある」。虫や魚貝・禽獣が誕生し「人民も必然的に生まれる。だから、諸惑星の皆に人民が存在する」と、太陽系外生命体や宇宙人の存在を予見した。これが二百年ちょっと前、文政期の話である。