書評

『新装版 落日の宴 勘定奉行川路聖謨』(講談社)

  • 2020/01/01
新装版 落日の宴 勘定奉行川路聖謨  / 吉村 昭
新装版 落日の宴 勘定奉行川路聖謨
  • 著者:吉村 昭
  • 出版社:講談社
  • 装丁:文庫(320ページ)
  • 発売日:2014-06-13
  • ISBN-10:4062778521
  • ISBN-13:978-4062778527
内容紹介:
幕末期、軽輩の身ながら明晰さと人柄で勘定奉行まで登り詰め、開国を迫るロシア使節プチャーチンと堂々と渡り合った川路聖謨の生涯。

高密度の生を描く

アメリカの商船カロライン・フート号が、 カムチャツカから下田港へ帰ってくる。船長の妻や長男長女など、十一人の男女が、宿泊所の玉泉寺で、今か今かと帰帆を待ちこがれていた。中に、当年二十歳の、水先案内人の妻がいて、夫恋しさのあまり、精神錯乱に近い取り乱した言動をする。やっと、その夫が帰ってきた。境内の入口で、走ってきた夫に駈け寄り、抱きつく。

二人は激しく抱き合い、荒々しく唇を吸った。唇をもどかしそうに動かし、舌をからめ合う。女は肩をふるわせて号泣し、唇をふれさせたりはなしたりしながら泣きくどく。頬に涙がながれ、男の眼にも涙が光った。

幕府の勘定奉行、川路聖謨(としあきら)が、ロシア使節プチャーチン中将を相手に、日露和親条約の締結へこぎつけるまでの、歴史に名高い悪戦苦闘をつづけていたころの話である。たちまち一室に引きこもって、声を放ちつつ男女の交わりをするこの紅毛人夫婦の「愛」の生態に、わが日の本の侍たちがどれほどの衝撃をこうむったか、誰しも想像がつこう。

四百四十ページに余るこの歴史大作は、「文化十四年、(川路聖謨は)十七歳で勘定所の筆算吟味をうけて及第し、翌年、支配勘定出役、評定所書物方当分出役となった」というような乾いた記述と、「川路は、絶句した。自分でも容貌はととのっていないことは知っているが、プチャーチンに慰められるほどひどいとは思っていない」のような平淡な「語り」と、初めに引いた急調子の、映像喚起ふうな描写がないまぜになっている。

記述の部分が多いのは吉村氏の作風だが、ゆったりと構えて、心を鎮めて読めば、その記述の部分も、いたずらに乾いているばかりではないと知れる。無味乾燥な記述と見えて、実はほどよい語りになっているところのほうが、むしろ、多い。それこそが年季というものなのだろう。

幕末の、剛毅な賢者、川路聖謨。手持ちの日本通史の、幕末、開国、攘夷を扱った二巻には、十六ヵ所にわたって川路の名と業績が記されている。開明的で、豪胆で、しかも心のこまやかな政治家として、きわめて評判のいい人だ。あの蛮社の獄の仕掛け人、妖怪と渾名(あだな)された反動政治家、鳥居耀蔵の、まさに対極にある人物というべきか。

ロマネスクな創作意欲をかきたてる人ではない。むしろ悪役の鳥居耀蔵のほうが、少なくとも五十枚、百枚程度の小説なら、書く者にも読む者にも手頃な主人公だろう。川路聖謨ほどの英傑を描き切るには、七百枚が要り、八百枚が要る。時代というものに徹底して筆を費さないと、この「肯定的人物」の悲劇性が読み手の心にしみとおらないからだ。

川路聖謨は、江戸開城の報を聞いて自決した。かつて日本には、そんなふうにしておのが生を断ち切る男たちがいた。彼らの過した一日一日は、さぞ高密度だったことだろうと、大冊を閉じつつ考える。
新装版 落日の宴 勘定奉行川路聖謨  / 吉村 昭
新装版 落日の宴 勘定奉行川路聖謨
  • 著者:吉村 昭
  • 出版社:講談社
  • 装丁:文庫(320ページ)
  • 発売日:2014-06-13
  • ISBN-10:4062778521
  • ISBN-13:978-4062778527
内容紹介:
幕末期、軽輩の身ながら明晰さと人柄で勘定奉行まで登り詰め、開国を迫るロシア使節プチャーチンと堂々と渡り合った川路聖謨の生涯。

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