書評
『『坊っちゃん』の時代―凛冽たり近代なお生彩あり明治人』(双葉社)
『「坊っちゃん」の時代』とシングル生活
関川夏央原作・谷口ジロー作画による『「坊っちゃん」の時代』(双葉社)全五部が遂に完結した(ALL REVIEWS事務局注:本書評執筆時期は1997年ごろ)。第一部『「坊っちゃん」の時代』の単行本刊行からおよそ十年で、第五部『不機嫌亭漱石』に至る。この素晴らしい作品については一度ならず書いた。完成したいま、全体を振り返りつつ読み返してみてもやはり傑作としかいいようがない。これはその精神において、伊藤整のやはり桁外れの名作『日本文壇史』を継ぐものだが、伊藤整になくて関川夏央にあるものはまず次の二点である。① 意図的な歴史の改ざん(というより変更)
② 作品の歴史への折り込み
①に関していうなら、主要登場人物たちを一点に集結させるため、関川は歴史を変更している。その中には誰の目にもわかるものも、それとは気づかぬものもある。明治のものを読みつつ、「ああ、あれは関川の創作だったのか」と発見する瞬間がある。かくして、読者の想像の中に「現実の明治」と同時に無数の「そうであったかもしれない明治」が生まれる。その醍醐味はなにものにも代えがたい。
②についていう。連作『「坊っちゃん」の時代』の中には歴史的事実でもなく、また想像によって描かれたものでもないシーンがある。それは本編に登場する作家たちの作品の光景である。彼らは、彼ら自身が書いた作品の中に自分の役割でゆっくりと登場する。およそ、あらゆる作品の中でもっともスリリングで魅惑的な風景とは、現実と虚構がとぎれることなく入れ替わることであろう。現代の我々は、それをメタフィクションと呼び、当然の技法として扱う。そして、ほとんど驚きを感じない。関川夏央は明治の作家たちをメタフィクションの中に投げ入れた。それにしても、なんと新鮮で、生きた、感情豊かなメタフィクションのシーンだったろうか。
ところで、『「坊っちゃん」の時代』の素晴らしさについて、わたしはいくらでも書くことができる。けれど、今回は最近はじめて気づいたことを少し記してみたい。
その一は、関川夏央の顔は谷口ジロー描く登場人物の表情によく似ているということである。もしかしたら、関川夏央が谷口ジローとの共同作業を続けてきたのは、そのせいだったのだろうか。
その二は、関川夏央の近著『中年シングル生活』(講談社)を読みながら感じたことである。
関川夏央は中年シングル生活者だ。
好んでひとり暮らしをするのかと聞かれたら、違うという。家庭をつくりたいのにがまんしているのかと問われたら、それも違うと答える。
ひとりで生きるのはさびしい。しかし誰かと長くいっしょにいるのは苦しい。そういうがまんとためらいに身をまかせてあいまいに時を費し、ただただ決断を先送りにしつづけてこうなった。つまり、ひとり暮らしは信念などではない。ひとり暮らしとは生活の癖にすぎない。
『「坊っちゃん」の時代』全五部の中で、作者にもっとも愛されているのは石川啄木である。では、啄木のなにが作者を引きつけたのか。おそらく、それは「家庭を持つことへの恐怖」(すでに啄木は持っていたが)であろう。それはいい換えれば、自由を束縛されることへの恐怖である。しかし、無制限な自由は人を放恣にするだけなのかもしれない。そう思った瞬間、シングル生活に憧れた啄木個人の問題が、明治末期に、作家たちを、いやすべての明治人を襲った「個と自由」の問題に転化するのである。
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