書評

『杉浦日向子全集』(筑摩書房)

  • 2018/07/03
二つ枕 - 杉浦日向子全集 第1巻 / 杉浦 日向子
二つ枕 - 杉浦日向子全集 第1巻
  • 著者:杉浦 日向子
  • 出版社:筑摩書房
  • 装丁:単行本(379ページ)
  • ISBN:4480701818

抜ける空のような「江戸」を描く杉浦マンガ

このたび『杉浦日向子全集』全八巻が、「百物語」(下)を刊行して完結した(ALL REVIEWS事務局注:本書評執筆時期は1996年)。著者は三年前に筆を折っているから(本当に折ろうとしてその固さに往生したそうだが)杉浦マンガのすべてがここに込められていることになる。ごくろうさまでした。

絵はあまり上手とはいえなかったように思う。とりわけ、江戸の町並みを見通す光景とか、長押(なげし)や鴨居や障子やフスマや天井の桟がタテヨコナナメに走って構成される室内のような透視図法的図柄が下手で、町並みは井戸の底をのぞいたようにビューンと地平線まで伸びてしまうわ、室内は線がたくさん走りすぎてうるさくなってしまうわで、そのうち上手になるだろうと思ったが、ついにそのままだった。

描写力不足から下手になる場合がままあるにもかかわらず彼女がパースペクティブ(透視図法)の利いたバックを描き続けたのはどうしてだろう。おそらく本人にたずねても自覚はないだろうが、画面の見透しをよくしたかったからではないか。杉浦日向子は、江戸を、どこまでも抜ける空のような見透しのよい空間の中で描きたかったのだ。

これまで江戸をそのように描く人も書く人もいなかった。江戸を評価するおおかたの歴史家や物書きの表現に接していつも嫌なのは、江戸を潰した近代への反発とスネが表現にニゴリを与え、なんだか高級なグチに付き合わされているような気分になってしまうからだ。江戸趣味というのも嫌で、自閉的すぎてもっと広い視野がほしい。杉浦マンガは、これまでの江戸モノに見られたニゴリと自閉からはじめて自由になった。

彼女が、見透しのよい空間を好む目で江戸を眺めた時、発見したのが北斎だった。江戸という時代も町も、その現実の姿は、鎖国と身分制にしばられて自閉性とニゴリの濃いものだったが、そうした中で北斎は、例外的に自閉とニゴリに負けない透視性の高い視線を持っていた。北斎と娘のお栄の日々を描いた代表作「百日紅(さるすべり)」は生れるべくして生れた。結局、未完のままになったが、彼女が描きたかったのは北斎のストーリーではなくて空間だったとすると、最初の一話だけでもう目的は達しており、未完を惜しむことはない。

それにしても、どうして彼女の江戸にはニゴリがないのだろうか。おそらく、現実が無いからだと思う。江戸の側に現実がないのではなくて、彼女の側に現実が、分かりにくい言い方になるが、現実を現実的に受けとめるセンスが欠けており、この欠如という能力が杉浦マンガを空のように透明にしている。

最後の作は、このたび配本された「百物語」。怪談集である。其ノ五十六話を絵抜きで、

さる富裕な家のご隠居。布袋(ほてい)さんに似た、堂々たる体躯の大声で良く笑う、達者な爺さん。七十七の喜寿迄長生きしたが、黒豆が大嫌いで、生涯一粒も口にしなかった。臨終の時、鯉の様に口を動かすので、遺言だろうと家族が枕元に寄ると、唇から黒豆がこぼれ落ちた。豆はあとからあとから涌(わ)き続け、最後の一粒を吐き終えて息を引き取る頃には、座敷中の畳が真っ黒に埋まり、ご隠居の体は半分程になっていたという。

現実を現実的に受けとめる能力の代りに、非現実を現実的にとらえる珍しい能力に恵まれたマンガ家であった。
二つ枕 - 杉浦日向子全集 第1巻 / 杉浦 日向子
二つ枕 - 杉浦日向子全集 第1巻
  • 著者:杉浦 日向子
  • 出版社:筑摩書房
  • 装丁:単行本(379ページ)
  • ISBN:4480701818

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初出メディア

毎日新聞

毎日新聞 1996年5月6日

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