書評

『コンニャク屋漂流記』(文藝春秋)

  • 2020/08/20
コンニャク屋漂流記 / 星野 博美
コンニャク屋漂流記
  • 著者:星野 博美
  • 出版社:文藝春秋
  • 装丁:文庫(485ページ)
  • 発売日:2014-03-07
  • ISBN-10:4167900602
  • ISBN-13:978-4167900601
内容紹介:
先祖は江戸時代、紀州から房総半島へ渡った漁師で、屋号はなぜか「コンニャク屋」!?祖父が遺した手記を手がかりに、東京・五反田から千葉、そして和歌山へ―時空を越えたルーツ探しの珍道中が始まる。笑いと涙の中に、家族や血族の意味を問い直す感動のノンフィクション。読売文学賞、いける本大賞受賞作。

温かさを分け与えてくれる書物

『転がる香港に苔は生えない』という、名著と呼ぶほかはない一冊によって星野博美と出会った人間にとって、星野作品は何よりもまず旅とともにあり、異郷体験をその中核とするものだった。『謝々(シェシェ)! チャイニーズ』しかり、『愚か者、中国をゆく』しかり。異国の日常のただなかに分け入り、庶民の暮らしぶりを生き生きととらえる術において、右に出る者がいない。そんな作者が異国から自国に目を転じたとき、いったい何を掴み取るのか。

出発点となるのは、父方の祖父が遺した手記である。十五年前にその存在を知りながら、これまであえて封印してきた。そこに記されている内容が、自らの根っこに関わるものであると想像がつくだけに、軽々に手を出したくないという思いがあったのだろう。親戚のおばあさんの葬儀に出て、ふと「親戚の多くが鬼籍に」入りつつあることに気づいたとき、作者は手記と初めて向い合い、一族のルーツを探る調査を開始する。その捜査は、思いがけない時空の広がりの中へと星野氏を導き、読者もまた興味津々の展開に目を見張ることとなる。

「?」と思わず首をひねってしまうような謎が何度も浮上してきては、ぼくらを驚かせてくれる。早い話が、表題にもなっている「コンニャク屋」だ。亡き祖父は千葉の外房、岩和田という漁師町の漁師の出だが、その屋号がなぜか「コンニャク屋」なのだという。著者はこれまでその屋号にまったく疑問を持たずに来た。当事者とはそういうものだろう。由来を尋ねてみる気にもなれないくらい、当たり前であるような気がしていた事柄を考え直してみるとき、物事にはすべて由来があるのだという真実が俄然輝き出す。この本にはそんな瞬間が次々に訪れる。読者としては、人の家の来歴に詳しくなっても仕方がないようなものなのに、「もっと知りたい」という気持ちに駆られてしまう。ちなみに「コンニャク屋」とはかつて、おでん屋をやっていたことがあったところからきた名前だった。漁師には随時、転身しながらまた海に戻るという才覚も必要だったのである。

祖父は、同郷の先輩を頼って上京し、町工場の経営で成功した人物だった。誠実な筆致に人柄のにじむその手記を頼りとして、著者は歩み出す。漁師町を尋ね、東京の街を散策、史書を参照しつつ探訪を重ねる。やがてぼくらの前に浮かび上がるのは、日本の漁師が懸命に生き抜いてきた、ざっと四百年におよぶ近世史の実態である。「コンニャク屋」の謂れから始まって、著者は魚を追い、よりよい生活を求めて勇敢に海を渡った漁師たちの軌跡を蘇らせる。江戸時代の幕藩体制は彼らを過酷にしめつけた。それでもなお力を合わせて活路を開いた、へこたれない者たちの姿が、ページの上に躍動し始める。

自分の家の先祖探しという、まったく個人的な動機から発して、著者は大きな歴史の潮流をとらえたのだ。その記述は決して空疎な一般論や概説に陥ることがない。それは何と言っても、「コンニャク屋」一族の人々の魅力あふれる個性が、本書をしっかりと支えているからだ。海で鍛え上げられた体を持ち、熱い連帯精神で結ばれ、大らかであけっぴろげで、しかも経験にもとづく英知を秘めている。そんな海の人々のあいだでも一目置かれていた一族の、溢れるばかりの人間味に、魅了されずにはいられない。何しろ皆さん、独自の語り口を備えていて、実に話し上手なのだ。たとえば御年まもなく九十二歳になる元海女「かんちゃん」のこんな話しぶり。

コンニャク屋ときたらもう、看板のうちであったの。人がようて情けがあって。そろいもそろって、みんな情けがある人どもなんだ。人をかわいそげがんの。そいでユーモアがあって人を笑わせて、人間が利口なの。わりいけど、そうなんだぉ。かんが一人、大馬鹿でよう。

「コンニャク屋」が漁師仲間たちにとってどんな存在だったかが、これだけで伝わってくる。「賑やかどころでないんだよ。みんな集まっと、這ってんの、笑っちゃって。座ってらんないんだぉ」という証言もある。そんないにしえの、笑いと人情に満ちた暮らしぶりが、年老いた親戚の快活な口調のうちに今なお保たれている。その言葉を丹念に、愛情込めて書きうつすことこそ、生きた歴史を記録することなのだと思わされる。

子ども時代の著者にとって、「かんちゃん」は「とにかくふくよかな柔らかい体」の持ち主で、しかも「何かにつけ私をぎゅうぎゅう抱きしめる」。「その抱かれ心地のよさといつたら、母猫のおっぱいを飲んで恍惚とする仔猫みたいなもの」だったという。岩和田の町が、縁もゆかりもないはずのぼくらにとって、かくも懐かしくもいとおしく感じられるのは、人肌の柔らかさ、温かさの及ぼす直接的な、ポジティヴな力が如実に伝わってくるからではないだろうか。「かんちゃん」の話には、四百年前に漂着したメキシコ船の故事も登場する。難破した人々を救おうと、岩和田の人々は「腰巻一枚」で秋の海に入り助けたのだという。「火よかね、体温が一番いいんですって。鼻の高えもんどもをよ、裸で抱いて温めたってよう」と彼女は村の言い伝えを語るのだ。

まさにこれは、そうした温かさを読む者に分け与えてくれる書物である。「世界の果てを探すことにやっきになっているうちに、私は自分の世界を失ってしまったのかもしれない」。『迷子の自由』でそう洩らしていた著者は、足元の地盤を掘り下げることで見事に「自分の世界」を探り当てた。「コンニャク屋」の精神を受けついで、星野氏はたくましく漂流を統けることだろう。
コンニャク屋漂流記 / 星野 博美
コンニャク屋漂流記
  • 著者:星野 博美
  • 出版社:文藝春秋
  • 装丁:文庫(485ページ)
  • 発売日:2014-03-07
  • ISBN-10:4167900602
  • ISBN-13:978-4167900601
内容紹介:
先祖は江戸時代、紀州から房総半島へ渡った漁師で、屋号はなぜか「コンニャク屋」!?祖父が遺した手記を手がかりに、東京・五反田から千葉、そして和歌山へ―時空を越えたルーツ探しの珍道中が始まる。笑いと涙の中に、家族や血族の意味を問い直す感動のノンフィクション。読売文学賞、いける本大賞受賞作。

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文學界 2011年10月1日

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