スキャンダラスな裏文学史
『ジュリアン・バトラーの真実の生涯』という題名を見て、ただちに思い出されるのは、ウラジーミル・ナボコフの『セバスチャン・ナイトの真実の生涯』である。そして、ナボコフの小説がセバスチャン・ナイトという架空の作家の伝記という体裁を借りていたように、本書もジュリアン・バトラーという架空の作家の伝記という形をとり、さらにそれを川本直が翻訳したという二重の仕掛けが施される。書物の背後に現実の書物と架空の書物があるという趣向を作者は隠そうともしない。架空の作家の伝記という枠組みだけを見ればこうした前例があるが、『ジュリアン・バトラーの真実の生涯』は前例のない小説である。なぜなら、ここで描かれるジュリアン・バトラーは実のところ真の作家ではなく、つねに彼のそばにいてゴースト・ライターを務めていた人間がいるからだ。その本人で、ジュリアン・バトラーではない別の覆面作家として新しい生を生きていたジョージ・ジョンが、覆面を脱いで真実を明かしたのが『ジュリアン・バトラーの真実の生涯』であり、それは暴露というよりは告白になる。
本書を貫くのは、同性愛者たちによるスキャンダラスな二十世紀文学史である。ここで名前が挙がっている文学者たちの大半は同性愛者であり、その事実は彼らが生きているあいだには噂にはなりこそすれ公然と口に出されることはなかったが、そうした作家たちは言及されるだけでなく、登場人物として本書の中で自由に動きまわる場所を得ている。その意味で、本書には裏文学史についてまわる陰はない。陰を背負っているのは、自らも同性愛者でありながら、それを公言できないでいた語り手のジョージ・ジョンだけだ。
スキャンダラスな内容を扱うときにしばしば用いられるのは、モデル小説という手である。その場合に、対象になる人物は実名ではなく架空の名前という意匠を纏って隠される。しかし、本書が独特なのは、架空の人物の背後にいるはずの実在の人物もまた、登場人物として現れるためである。たとえば、語り手ジョージ・ジョンの背後にはゴア・ヴィダルが、そしてジュリアン・バトラーを拳銃で撃つという事件を起こした作家リチャード・アルバーンの背後にはノーマン・メイラーがいる。そのヴィダルもメイラーも、本書では登場人物として現れ、派手な立ちまわりを演じる場面まである。つまり、本書は小説じたいが細部にいたるまで虚構と現実の双方を備え、隠すように見えながらあらわにされていて、両性具有的なのだ。
訳者あとがきという体裁で添えられた、巻末の「ジュリアン・バトラーを求めて」は、著者の川本直が翻訳者の仮面をかぶりながら、A・J・A・シモンズの『コルヴォーを探して』のひそみに倣う体験記を虚構化したもので、本書の核と呼んでいい。自由奔放で包み隠さない「生きる人」ジュリアン・バトラーを、「書く人」ジョージ・ジョンは真に愛していた。彼は『ジュリアン・バトラーの真実の生涯』を書くことによって、その中で共に永遠に生きようとする。やはりスキャンダラスな性愛を扱ったナボコフの『ロリータ』を想起させるこの結末には、感動を覚えずにはいられない。