後書き

『歴史の風 書物の帆』(小学館)

  • 2022/03/01
歴史の風 書物の帆  / 鹿島 茂
歴史の風 書物の帆
  • 著者:鹿島 茂
  • 出版社:小学館
  • 装丁:文庫(368ページ)
  • 発売日:2009-06-05
  • ISBN-10:4094084010
  • ISBN-13:978-4094084016
内容紹介:
作家、仏文学者、大学教授と多彩な顔を持ち、稀代の古書コレクターとしても名高い著者による、「読むこと」への愛に満ちた書評集。全七章は「好奇心全開、文化史の競演」「至福の瞬間、伝記・… もっと読む
作家、仏文学者、大学教授と多彩な顔を持ち、稀代の古書コレクターとしても名高い著者による、「読むこと」への愛に満ちた書評集。全七章は「好奇心全開、文化史の競演」「至福の瞬間、伝記・自伝・旅行記」「パリのアウラ」他、各ジャンルごとに構成され、専門分野であるフランス関連書籍はもとより、歴史、哲学、文化など、多岐にわたる分野を自在に横断、読書の美味を味わい尽くす。圧倒的な知の埋蔵量を感じさせながらも、ユーモアあふれる達意の文章で綴られた読書人待望の一冊。文庫版特別企画として巻末にインタビュー「おたくの穴」を収録した。

あとがきに代えて

人文系統の物書き稼業を何年か続けていると、懐はいっこうに暖かくならないのに、書いた書評の数だけは確実に増えてくる。おまけに、原稿の依頼があれば内容のいかんに拘らず、また稿料の高低に関係なく、一切これを断らないという、ほとんど狂気じみた原則を守り続けてきたので、気がついたら、四、五年のうちに、書評がゆうに百本を越えていた。

われながら、よくもまあ、これだけの本を書評したものだと思う。そして、書評という報われることのまことに少ない仕事に費やした時間と労力のことを考えて、いささか索然たる思いに捉えられる。他人の本を読む暇があるなら、自分の本を書いた方がいいのではないかという内心のささやきが聞こえる。しかし、ある程度「好きで」書評している部分もあるのでそれはそれで仕方のないところかもしれない。いやなら初めから書評など断ればいい。

問題なのは、書評という行為に果たして社会的な意義があるのか、という根本的な疑念を捨て切れないことである。いいかえれば、現在の情報過多の社会において書評というものが人さまのお役に立っているのだろうかというネガティヴな気持ちを払拭(ふっしょく)することができないのだ。以前のように、書評を読んだ人が、早速その足で書店に出掛けて、推奨した本を買うということがあるならば、書評のしがいもあるだろう。あるいは、逆に世間的価値のみ高くて実際には無価値な本を酷評することで、ブームに冷水を浴びせることができるならば、逆の意味で書評の効用というものを実感できるかもしれない。だが、現在では、時間をかけて本を読み、与えられた少ない枚数で苦心惨憺(さんたん)して内容を要約し、本の価値に正確に見合った評価を与えることができたとしても、その書評で、本が実際に動くということがあるかといえば、これを積極的に肯定できる人はそうは多くないはずだ。

その原因のひとつは、多くの識者が指摘しているように、本の流通システムにある。現在の委託販売制度では、新刊本が書店で平積にされるのは、長くて二週間。十冊仕入れた本がこの間に三冊売れたとしても、平積み期間が過ぎると、棚置きの本一冊を残して他の六冊は返品してしまう。これでは一カ月後に書評が出て、それを見た読者が本を買いに出掛けても、書店の店頭に見つからないので手ぶらで帰ってくるという事態が起きる。店頭になければ、それでお仕舞いである。一カ月かかってもいいから注文で取り寄せるという奇特な読者はそう多くない。

だが、書評で本が動かない本当の原因は、別のところにある。すなわち、書評は、書評家が思っているほどには読まれていないのである。私自身、いまでも自分の書評が実際に読まれているという確信を持つことができないでいる。一例をあげよう。私は現在、二年半前から「毎日新聞」で書評委員をしている。「毎日新聞」の書評欄は、六大新聞のなかではもっとも充実していると定評があるし、読まれている率も最高だろう。事実、書評の掲載される月曜の駅売り実績も抜群である。ところがそれでも、「毎日新聞」を購読しているという、非知識人の知人や友人(その中には私の教えている学生も含まれる)に聞いてみると、私が執筆していることを全然知らないという人が案外多いのである。これは、「毎日」特有の現象でもなんでもない。おそらく、「朝日」でも「読売」でも同じことだろう。試しに、購読している新聞の書評委員の名前を三人あげてくださいというアンケートを取ったら、どの新聞でも惨憺たる結果が出るのではないか。

書評に無関心なのは一般購読者だけではない。書評で取り上げられている本の当事者も書評を読まないのである。書評を書き始めた頃は、少なくとも、取り上げた本の著者(あるいは訳者)と出版社の担当者ぐらいは読んでいるものと思っていたのだが、ある時間を経たあとでは、そうでないケースが圧倒的に多いことに気づいた。小さなメディアの場合はいうに及ばず、日刊紙で取り上げた本でも、著者にも出版社にも、書評が出たという知らせが伝わっていないことが少なくない。直接著者本人に会った際、書評で取り上げましたよ、と伝えると、「えっ、全然知らなかった」と言われる経験が何度かあったから、これは本当である。

思うに、こうした原因の一つは、編集者が一冊本を世に出すと、自分の仕事はもうこれで終わったと考えて、その後のフォローをほとんどしないことにある。次に手掛けなければならない本が山ほど控えているので、出してしまった本のことなど、もうどうでもいいのである。書評がどこかに出ていようがいまいが、そんなことに一々かかずらっていたのでは身がもたない。本を作るのは確かに自分の仕事だが、そのあとは営業の仕事と割り切っている編集者のほうが、いまや多数派になりつつある。一昔前の編集者なら、月曜日に六大紙の書評欄に目を通すことから一週間が始まったが、いまや、備え付けてある編集室の新聞を、誰一人として開かないという出版社だって、決して珍しくはないのである! 友人に聞いても、自分の本の書評が出ていることを、編集者ではなく、友人や知人から教えられたケースのほうがはるかに多いという答えが返ってくるが、この事実は、こういった状況が、かなり一般的になっていることを物語っている。

しかしながら、せっかくの書評が著者や訳者に届かないという事態の責任をすべて担当編集者に帰するのはいかにも酷である。というのも書評を掲載しているメディアが多すぎて、到底フォローしきれないというのもまた真実だからである。昔なら日刊紙と書評紙、それに一定数の週刊誌と月刊誌を押さえておけばそれで済んだが、いまや、書評を掲載しているメディアの数は膨大である。しかも、メディアによっては、中心街の大書店まで行かなければ手に入らないものも多いので、編集者が一人で自分の出した本一冊一冊についてこれをやることは、ほとんど不可能に近い。

したがって、責任の一端は書評を掲載したメディアの担当編集者にある。すなわち、書評を依頼する編集者の関心は自分の担当している紙面を「埋める」ことだけにあるので、書評原稿が締め切りまでに届きさえすれば、それでよいのだ。いいかえれば、書評欄担当の編集者にとって、その書評が「読まれる」ということは最初から考慮の埒外(らちがい)にある。書評が読まれないのは、読まない奴が悪いというわけだ。これは考えてみれば、いささか驕慢(きょうまん)な態度ではなかろうか。書評を載せたということは、その本のおかげで紙面を埋めることができ、自らの糊口(ここう)を凌(しの)ぐこともできたのだから、書評が好意的なものであると否とを問わず、その本の著者(訳者)なり出版社なりに、掲載紙(誌)を送り届けるというのが本筋ではなかろうか。どうせ、書評に取り上げる本など三、四冊に限られる。発送料などたかが知れていると思うのだが、このモラルを実践しているメディアは驚くほど数が少ない。一割にも満たないのではないか。

とはいうものの、書評は、本来、その本の著者(訳者)や出版社のために存在しているわけではないのだから、実際には書評がそうした人々の目に触れなくとも、それはそれでいいのだ。極言すれば、書評が書評として機能していさえするのなら、一方の当事者が関知しなくとも、いっこうにかまわないのである。

しかし、それでは、書評をかつてのように、本に評価を与えるとか、売上を伸ばすとかいった社会的機能を果たしているかというと、初めに述べたように、そんなことはまずないといってよい。

とりわけ、小さなメディアの場合には、書評はいわば編集のルーティン枠を満たすための埋め草でしかないので、書評を依頼した編集者本人ですら、その書評が社会になんらかのインパクトを与えるなどとは初めから思ってはいない。

では、社会への影響力も皆無で、当事者にさえ読まれることのない書評欄が、なぜ廃止されないのかといえば、とにもかくにもそのメディアを発行し続けなければならないという資本主義の至上命令があるので、埋め草としては最も知恵を働かせなくて済む書評欄は、活字メディアにとってまことに便利なものだからである。

こうした「永遠に読まれざる書評欄」に原稿を依頼される物書きこそ哀れである。「甲斐(かい)なき努力の美しさ」などととうそぶいてはいられない。書評することの空しさにさいなまれない日は一日としてないといっていい。だが、それでも報酬がよければ、まだ賃仕事と割り切ることはできる。しかし、読まれざる書評欄に限って、原稿料は嘘(うそ)みたいに安い。六百ページもする分厚い研究書を二週間かけて付箋(ふせん)を張りつつ精読し、四枚の書評原稿を書いて渡したら、振り込まれた金額が税金一割を引かれて三千六百円だった、という例も珍しいものではない。というよりも、大新聞と一部の大手メディアを除くと、こちらのほうがはるかに多い。タダだったというところさえある。日本では事前に原稿料を訊ねてはいけないという不文律が存在するからだ。もっとも、時として、タダでも書評したいという本もあるから、一概に原稿料が安いからダメだとはいわない。たとえば原稿料が四百字詰原稿用紙一枚千円のメディアでも、価値のある本について、十枚二十枚のまとまった書評(書評とは本来この程度が最低なはずだ)を書かせてくれるのなら、文句を言う筋合いはいささかもない。ところが、どんな寛容なメディアでも、書評は五枚が限度である。これでは、言いたいことの半分も言えないし、第一、とりあげた本に対して失礼である。しかし日本では、書評というのはそういうものと「制度的に」決まっているので、どうしようもないのである。

それなら、なんでお前は書評なんか書くのか、おまけに、どうしてそれを纏(まと)めて本にしようなどと、酔狂なことを考えついたのかと、ここまで黙って愚痴を聞いてきた読者は、苛立(いらだ)たしげにつぶやいているにちがいない。

ごもっともである。私だって、長い間、ただ書評は空しいという気持ちしか持っていなかったし、本に纏めようなどとは思ってもみなかった。

ところが「毎日新聞」の書評委員を引き受けて、取りあげる本を自由に選択できるようになってから、考えが変わった。書評を書くということの大いなる意義を見いだしたのである。すなわち、私が本を評価していると考えるからいけないのであって、本のほうが私を試練にかけ評価を下していると考えればいい、という「逆転の発想」が浮かんだのである。ひとことで言えば、書評とは、書評する人間のほうが価値を評価される「人評」でもあるのだ。

書評に取り上げる本が本当に優れたものならば、それをどう紹介し、どう要約し、どう評価するかによって、書評子の力量が逆に試されるはずだ。つまり、書評が読まれようと読まれまいと、そんなことは一切関係なく、ただ書評をするたびに、一冊の本に関する書評子の「紹介・要約・評価」の能力が試練にかけられて、その様が公に晒(さら)されていると考えるようになったのである。

いやしくも物書きを生業にしているほどの「虚栄心」と「自己顕示欲」に富んだ人間なら、この試練を受けて立つことは、これはこれでまんざら不愉快なことではない。「書評芸」の域に達するのは無理だとしても、書評という行為を通して、なんらかの自己表現を行うことは可能である。私は本とは直接関係ない私事を語ってお茶を濁す類(たぐ)いの書評は好きではないが、本の「紹介・要約・評価」の面で「私」を打ち出すことは決して悪いことではないと考えている。つまり、客観的ではあっても、個性的であるような書評は成り立つと思うのである。

だが、こんなことを言うと、なんて図々しい奴だ、自分で自分の書評が面白くて個性的だといい張るつもりかとブーイングが起こることは目に見えている。もちろん、私とて自分の能力がどの程度のものかはちゃんとわきまえている。ただ、私は「装われた謙遜(けんそん)」というレトリックが嫌いなだけのことである。主観的には、読者に少しは楽しんでもらえると思って書いているが、客観的には、まったくつまらない書評かもしれないという認識は十分にもっている。この自覚があれば、それでいいではないか。

ただ、そうはいうものの、もし、私が編集者だとしたら、本として、つまり新聞や雑誌を買いさえすればタダでついてくる「書評」ではなく、読者が金を払って買う「書評集」として売り出すには、著者の「個性」なり「私」だけでは、いかにも商品価値が薄いと判断するだろう。この点は著者としての私も同意見である。いくら私が傲慢(ごうまん)な人間だとしても、タイトルに自分の名前を入れたり、著者名が商品価値を持つと考えるほどに自惚(うぬぼ)れてはいない。いいかえれば、書評をまとめて一巻としたとき、そこに何かしらの客観的な「商品価値」がなければならない。そう考えて、何かないかと探してみたが、幸いなことに、一つだけ客観的な利点があることに気がついた。それは、内容の要約それ自体が書評であるという信念で書評を書いてきたため、方々に書き散らしてきた書評を纏めてみれば、至って便利な読書案内ができあがるということである。とりわけ、フランスの社会史や文化史の紹介には、意識的に力を入れてきたので、この方面のガイド・ブックが皆無の状況では、思いのほか重宝な本になるのではないかと思い至った。新刊本が書店に「滞在」する期間が最長でニカ月というような現在の読書状況では、新刊本の書評が本に収録されて、「旧刊本」の書評になっていても、それは逆に、本を注文で取り寄せる際の参考資料になるだろう。

と、まあ、以上のような「合理化」を行って書評を続行し、それを一冊の本とすることを決意したのだが、こうして大見得を切った割には、書評集を刊行することの晴れがましさというものはない。あるのは、むしろ、こんなものでも楽しんでいただけましたら幸いです、といった、柄にもない謙虚な気持ちだけである。

それでも……、払った分だけは回収していただける本だとは、ひそかに自負してはいるのですが……。

本書のタイトル「歴史の風 書物の帆」は、エピグラフに引いたヴァルター・ベンヤミンの断片を少しもじって付けたものである。書評することが、書物という「帆」を「張る」一つの方法となることを願って。

最後になったが、本にすることなどまったく意識しないで書かれた書評をなんとか統一感のあるアンサンブルに編集し、多少なりとも、伝えるべき何ものかを引き出していただいた筑摩書房編集部の岩川哲司氏と編集の実務を担当された岡部優子氏に、心よりの感謝の意を表したい。

一九九五年十一月三十日(四十六回目の誕生日に)鹿島 茂

『歴史の風 書物の帆』文庫版あとがき

ときのたつのは、本当に早いもので、本書が最初に世に出てから、もう十三年も経過してしまった。

その間に、本を巡る状況は劇的に変化し、いまや、紙に印刷した活字という媒体が消えるかもしれないという事態さえ生まれている。

かつて、圧政者は、秦の始皇帝にしろ、ヒットラーにしろ、焚書(ふんしょ)というパフォーマンスを演出して、本をこの世から追放しようとしたが、現在では、秦の始皇帝もヒットラーもいないのに、本は、新しく登場したメディアのおかげで、存在することそれ自体を事前に拒絶されるに至っている。本は、「不在」でも「非在」でもなく、「未在」の状態に置かれつつあるのだ。

したがって、十三年ぶりであるとはいえ、本書が「不在」から「存在」の状態に転化し、読者の手にゆだねられるようになったことは欣快(きんかい)にたえない。

そして同時に、本書の中にタイムカプセルのように保存されていた本たちの情報が再び、読者の目に触れるようになったことを率直に喜びたい。本書の内容がインターネットに掲載されない限り、これらの本たちもまた「不在」を余儀なくされていたかもしれないからだ。

だがそうはいっても、本書に取り上げられた本たちは幸せである。とにもかくにも、「未在」ではなく、モノとして存在することができたのだから。そして、いったん世に出たら、古書というかたちであれ、それを探そうと努力する人の手には、かならず到着するようになっているのだから。とりわけ、ネットにアクセスする術を持つ人には、良い時代になったものである。

あるいはamazonで、あるいはウェブサイト『日本の古本屋』で。書名を検索すれば、たちどころに在庫の有無が判明し、遅くとも数日後には手元に届くようになった。素晴らしいことである。まことに皮肉なことに、本を「未在」に追い込もうとしている当のメディアのおかけで、こうしたことが可能になったのである。

「モノとして存在する本」を愛するすべての人に、本書を捧げたい。

文庫化に当たっては、エディター櫻庭薫さんにお世話になった。この場を借りて、感謝の言葉を伝えたい。

鹿島 茂
歴史の風 書物の帆  / 鹿島 茂
歴史の風 書物の帆
  • 著者:鹿島 茂
  • 出版社:小学館
  • 装丁:文庫(368ページ)
  • 発売日:2009-06-05
  • ISBN-10:4094084010
  • ISBN-13:978-4094084016
内容紹介:
作家、仏文学者、大学教授と多彩な顔を持ち、稀代の古書コレクターとしても名高い著者による、「読むこと」への愛に満ちた書評集。全七章は「好奇心全開、文化史の競演」「至福の瞬間、伝記・… もっと読む
作家、仏文学者、大学教授と多彩な顔を持ち、稀代の古書コレクターとしても名高い著者による、「読むこと」への愛に満ちた書評集。全七章は「好奇心全開、文化史の競演」「至福の瞬間、伝記・自伝・旅行記」「パリのアウラ」他、各ジャンルごとに構成され、専門分野であるフランス関連書籍はもとより、歴史、哲学、文化など、多岐にわたる分野を自在に横断、読書の美味を味わい尽くす。圧倒的な知の埋蔵量を感じさせながらも、ユーモアあふれる達意の文章で綴られた読書人待望の一冊。文庫版特別企画として巻末にインタビュー「おたくの穴」を収録した。

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