書評
『神主と村の民俗誌』(講談社)
「信心は宗教にあらず」と気づく
神崎宣武(のりたけ)さんは宮本常一門下の著名な民俗学者である。岡山の吉備(きび)高原の南端、宇佐八幡神社に生まれた。由緒ある神社で、宣武さんで二十八代目。そこの跡継ぎが民俗学を勉強したいと申し出たとき、祖父と父は困惑しただろう。神社の務めを果たしながらできることか。少々のやりとりの末、許すことにしたのではなかろうか。世襲を宿命づけられている者に、せめて若いときだけでも好きなことをやらせたい。「民俗学者」がえたいの知れぬこともあった。神主業とかかわりがある気もするし、それに民俗学者は職がないそうだから、忙しくて帰郷できないといったこともあるまい。そんなわけで二重業の神主兼学者が生まれたような気がする。
吉備高原はよく耕され、独特の美しい景観をみせている。農家は建物が大きく、背後に屋敷杜(もり)をもち、近くに畑、そのまわりに田。合わせてほぼ一町。一町農家が集落をつくっている。ゆたかな農村であって、そういうところは神々にとっても「居ごこちがよい」のだ。ことあるごとに、社(やしろ)や辻(つじ)、家々に降臨して、祭りがとりおこなわれてきた。十月半ばから十二月にかけて、いつもどこからか祭り太鼓が流れてくる。
『神主と村の民俗誌』は祭礼がもっともにぎわっていた三十年ちかく前に本になった。当時、神崎さんは父を補助する禰宜(ねぎ)を務めていた。見習いであって、宮司の業務を体験で身につける。
「そろそろ、お神楽祈祷(きとう)をあげてくれんか」
父の声に、若い禰宜はひとり幣殿に上がっていく。この優れた民俗誌はそんな真夜中の風習からはじまっている。神主職が世襲である意味がすぐに分かる。幼いころから祭り太鼓を聞きなれていた。「横打ち」という特有の打ち方、左右のバチの使い方を見てきた。それがないと伝統的な音色は出ない。
「ま、ま、その盃をあけてくだせえ」
ひとり祈祷の終わるのをみとどけて、お神酒(みき)をさげて話しにくる人がいる。全15章のほとんどすべてに、氏子の聞き書きがまじえてある。先の神主のこと、当時のむらの風習、祭りの特色、備中神楽のこと……若い禰宜が知りたいと思うことを、土地ことばをまじえて話してもらえる。「若」は格式のある父や祖父とちがって話しやすいのだ。なんでも聞いてもらえる。見る・聞くを主体とする民俗学者の本能もあるだろう。「もっとも世俗的な話」が一番おもしろい。若い人がじっと氏子と村の人を見ているように、相手もじっと帰ってきた「若」を見ている。
「まあ、あんた、ほんまに大きゅうなったなあ」
正確に社会的な成長ぶりを推しはかっている。祭りが聖空間の大切な営みであるとともに、「人心をひとつ目的のために結束してむらやいえを維持せんとする仕掛け」であるからだ。
神崎宮司はひところ、社家の絶えた七つの神社を兼務していた。秋が近づくと、目がまわるほど忙しい。その中で気がついた。「神主の祭祀(さいし)技術」ほど不統一なものはない。一応のマニュアルはあれ、土着の作法や旧法が根強く継続されている。また気がついた。「信心は宗教にあらず」。若さの学びとったことが、日本人の信仰の形態に深まっていく。たのしく祭りの進行に立ち会いながら、読者は自分の日ごろの信仰心、あるいはそれのなさに引きもどされる。
初版以来、三十年ちかい歳月が流れ、若い神主の「奮戦記」であったものが、二つとない民俗誌になった。宇佐八幡を継いだ二十八代目が祭儀に忙殺されている間に、著書がひとりでに成長した。良書のあかしだろう。