「ハンス・ロスリングが本を書くことになったんだ。手伝ってくれないかい?」
二〇一六年一二月の夕刻のことだった。ナトゥール&クルトゥール社の社長、リカルド・ヘロルドから電話でそう尋ねられた時、私は地下鉄に乗っていた。
すでに進行中の『FACTFULNESS』のように、彼の講義をまとめるのでなく、この本は彼自身の個人的な人生の物語にするつもりだそうだ。
ただし、かなり急ぐようだった。リカルドはさらに、ロスリングが末期の癌に冒されていると、私に告げた。もう長くないかもしれないそうだ。執筆を急がなくてはならなかった。
ほどなくして、彼の人生についてすでに書き出した文章があると分かった。ここ数か月の間に書かれた彼の手記だった。ただ、それには構成、リライトの必要があった。
二、三週間後、私とリカルドは、ウプサラのロスリングとアグネータの自宅の前で、お土産のパンを提げ、立っていた。それがロスリングとの初顔合わせだった――最初で最後の。インターホンを鳴らす時、ひどく緊張した。何が私を待っているんだろう? 病床で出迎えられるのだろうか? 話はできるのだろうか?
アグネータがドアを開け、ロスリングが息をぜいぜい言わせながらも、精一杯の笑顔で出迎えてくれた。話をするぐらいなら問題ないとすぐに分かった。
私たちは玄関の広間に長いこといた。ロスリングが玄関から、あの熱のこもった語りで、色々な話をはじめたからだ。その部屋の大部分を占拠しているのは同じぐらい赤い二脚の木の椅子とこれもまた赤い木のゆりかごとその上にかけられた赤い巨大な木の時計などだ。その時計は、ハンスが授与された賞の記念品としてもらった芸術作品で、家の中にそこ以外、置き場がなかったのだ。
壁には、今はゴルフ場になっているアグネータの一族のヴァスンダの農場の地図が掛けられていた。
「君にはここがどこか分かるよね?」とハンスは尋ねると、私を見つめた。
まるでちょっとした試験みたいだ。しかもハンスはいたずらっ子みたいな目をしてる。私はウップランド地方の地図に特別詳しくないと認めたが、私がそう言った時に彼はすでにリビングの方に向かっていたので、耳に入らなかったようだ。リビンクに向かう途中、アグネータと自分は、結婚五〇周年のお祝いをしたばかりだと話してくれた。
「互いを信じていれば、場所や思想に縛られずに済むものさ」と彼は言っていた。アグネータとハンスは中学校の時から、同じクラスだった。ある日、先生が統計学的に見て、クラスメイト同士で結婚するカップルが一組は出るはずだと言った。アグネータは教室で周りを見渡し、こう思った。「私じゃないわよね」ところが数年後、ハンスとアグネータは、同じニューイヤー・パーティ――ウプサラの禁酒協会による禁酒パーティーに一緒に参加していた。その時以来、二人はカップルだ。
居間に入るとハンスがすでに用意していた、きれいに二枚に束ねられた履歴書を渡してくれ、アグネータはコーヒーを準備してくれた。
病気について、ハンスは余り話したがらなかった。彼が話したかったのは世界についてで、近くのソファの近くに食卓を出してきて、その上にパソコンを置いた。
「ケーブルに注意して」と言って、手にリモコンを持ち、ケーブルをいじりはじめた。
ウプサラに日が落ちる中、彼はスクリーンの前で細い腕で、子どもの死亡率についてのグラフを指差した。仕組みを私が理解する間もなく、グラフと数により物語が織りなされた。コーヒーが注がれるとすぐ、ハンスが七〇年代、モザンビークの病院で若い医師として下さなくてはならなかった難しい決断について話しだすのを私とリカルドは黙って聞いていた。彼は、母親を助けるために、胎児縮小術を施したこと、極度の貧困によるジレンマにいかに耐えてきたのか、収入の低い国での仕事が時にフラストレーションとなって狂気に駆り立てられたことを話した。アフリカでの研究がいかに過酷で、仕事での重圧と家庭生活における個人的な悲劇がいかに混じり合ったのかを。大勢の母親が子どもを失うさまをどのように彼が見たのかを。彼とアグネータが娘を失った時、子どもを失う痛みを知ったことも。
アグネータはその話を要所、要所で補ってくれた。外が暗くなりはじめて、ハンスの言葉がゆっくりとしか出てこなかったり、声が急に途切れたりしてきた。やがて彼の目から涙がこぼれ落ちはじめた。ソファでハンスの傍らにいたアグネータまで泣き出した。気づかれないように声を殺して。
「この話をするのは随分久しぶりだよ」とハンスは言った。
その日の晩、さっそくハンスからの一通目のメールが届いていた。彼は病気であるにもかかわらず、感じていた再起への希望を綴っていた。その時から私たちは、ほぼ毎日、メールか電話で連絡を取り合った。旅行中も私は、会話をいつも録音していたテープレコーダーを持っていった。
ある午後、彼は「はつらつとして見えるよう、格好いいポーズをとる」とコメントを添えた、道をクロスカントリースキーで進む自分自身の写真を送ってきた。そしてハンスは日課となった会話中にははつらつとしていた。会話は数時間にも及ぶこともしばしばだった。午前中に話をし、お昼に休憩を挟み、午後、また話すこともあった。彼は同じ熱っぽいトーンで毎回話をしてくれた。
私は彼の人生についての話を初めから聞こうと決めていて、彼もそう望んでいた。
「話を元に戻そう」
彼はトピックと関係のない話の流れに迷い込み、我に返った時は、しょっちゅうその言葉を繰り返した。
ロスリングが新たな一節を書いている間、私はすでにできている文章の確認をはじめた。リライトが必要な箇所や、掘り下げたい部分をピックアップし、それらについて質問した。
ロスリングは個人のこと、また自らの人生の歩みを私に聞かせると同時に、世界についても話そうとした。
「ファニー、今から君のために、世界の発展にまつわる短期講義をしよう」と彼はよく言っていた。ワクチンをどうやって手に入れたのかや、表現の自由と経済成長にどんな関連性があるのか、補足の質問をすると、彼が満足そうに笑う声が受話器の向こうから聞こえた。
私たちはこの本の方向性について、長い議論を何度も重ねた。彼はいつも教育者らしく、結論に重点を置き、理由を示した。それぞれの章から読者が何を学べるか? それが彼のいつも気にかけていたことだった。一方、私は、彼が個人的にどんな体験をしたかや、様々な出来事から彼個人がどんな影響を受けたのかを、毎回聞き出そうとしてきた。それらについて彼の言葉を引き出すのは、必ずしも容易なことでなかった。けれど一度勢いに乗ると、放っておいても言葉が次から次へとあふれ出した。ウプサラの家のソファで泣いた日と同じく、自らの人生のエピソードや出会った人々について思い出すと、しばしば感傷的になるようだった。
ハンスは、自分の人生やキャリアが本にできるほど面白いだろうかと心配していた。それに時間が足りないじゃないか、とも。
「私には話したいことが、山ほどあるんだよ」といつも言っていた。
ひとつ目の不安は私が何とか取り除ければよかったのだけれど、それは叶わなかった。ふたつ目の不安は、実は私も抱いていたものだった。
私たちは実際、間に合わなかったのだ。
「また話せるようになったら、連絡するよ」
ロスリングからの最後のショートメッセージには、そう書かれていた。彼が亡くなったのは、その三日後のことだった。
この本は二〇一七年の一月と二月に行ったインタビューの録音資料をベースに書き上げたものだ。ロスリングの他、様々な手記やインタビュー、講演での言葉も借りた。彼自身が書いていた細かなエピソードをつなぎ合わせるため、私生活や仕事で彼の身近にいた人たちに、補足のインタビューもした。
とりわけアグネータとは何度も話した。彼女は彼の人生、旅行、仕事の写真だけでなく、日々の生活の写真も見せてくれた。父親、それに夫としてのロスリングの写真を。存命中、知ることのできなかった一面が、アグネータや子どもたちの話から、浮き彫りになったのだ。
***
二〇一七年の夏、スコーネでの二日間、風が強く、砂の熱い海岸に、アグネータと私はいた。私たちはアグネータが父親から引き継いだ白い漆喰の家の廊下に掛けられていたのと同じストライプのタオル地のバスローブに身を包まれていた。一家は何世代にもわたり、夏の住まいとしてこの先祖代々の家を受け継いできた。
スコーネ地方は涼しい夏だった。ところがアグネータは、毎朝、泳ごうと、小道を行き、水辺に飛び込んだ。水温は一三度を超える程度だった。そしてクリスマス・イブと誕生日と学生が家に訪れてきた時には、彼の教え子であるアフリカ人の博士課程の学生がしばしば訪れた。祭事といえば、アフリカ人の学生というぐらい彼らはおなじみになっていた。スウェーデンの家庭の様子を覗けるのは、彼らにとっても楽しいだろうと、ハンスは考えていた。
その代わりに、それらのアフリカ人学生がヨーロッパの別の地に働きに行ってしまうことになると、ハンスは、時にはハンスとその家族は、夏休みの毎年恒例のキャンプ中であっても彼らに別れを告げに行こうとした。彼とアグネータは子どもを連れ、ルーフ・ボックスをつけた白いボルボ一杯に荷物を積み、ヨーロッパ大陸を旅して回った。ハンスは途中で読めるよう学術書を忍ばせた旅行かばんをいつも少なくともひとつは携えていたが、気付くとベストセラーの本に夢中になってしまっていた。旅行中、一家は毎日、場所を変えてテントを立てた。六人用のそのテントは緑色で、広告で見て買った、「今は誰も使っていないような東欧で一番醜い」テントだった。
ハンスは様々な国を旅したがった。大きな国を制覇すると、次はアンドラやモナコなど辺境の小さな国を巡った。一カ国を「制覇」する条件は、そこで何かを食することだった。車内にはトランギア社のキャンプ道具付きの簡易コンロがあったが、ロスリング家は食事をあまり重視していなかった。最悪パンでもお腹に入れておけば、立っていられると思っていた。アグネータは車の後ろのトランクに置いていた熱湯を、インスタントコーヒーを入れたコップに注いだ。
ある年、ハンスは簡易コンロと間違えてポータブルのファックスを持ってきてしまったことがあった。
「あの人はキャンプの荷物よりも、自分の論文のことばかり考えていた」とアグネータは言った。
***
草に雨露が光っていたが、ソファ・セットは乾いたままだった。アグネータが「年金生活者保育器」と呼ぶ、草と木のサマーハウスに私たちは座っていた。アグネータはテーブルにカラフルなティーカップとダイジェスティブ・ビスケットを置いた。屋根からは様々な色のペーパー・ランプが吊られていた。角っこには歪んだランプがプラグにまかれていた。
彼女はメガネをかけると、旅行の写真がたくさん保存されたコンピュータを開いた。
「このナカラの写真、雨の中、火を熾そうとしているから、停電が起きてたんじゃないかしら」と彼女はそう言うと、一枚の白黒写真について思いを巡らせた。
二〇一六年の秋、講演でただでさえ忙しかったハンスは、息子のオーラとその妻、アンナとの共著『FACTFULNESS』でもまた大わらわだった。彼の書いたものすべてを分類したり、古い写真に目を通したりしているうちに時間は消えていった。彼は体調がよい期間には、一日中執筆に取り組み、名前や場所を思い出そうとしていた。時折、彼はノスタルジックな気分になったが、すべてを台無しにしてしまう種の感傷に浸ることは決してなかった。彼は手紙やメモが入れられた古い箱の中に潜んでいた時に心を奪われた。彼は何でもとっておいたが、人生で起こった出来事を時系列に並べることがいかに難しいか家族に訴えた。
そして彼はいつも癌についての書物を読み、アグネータに読んだ内容を話した。ハンスは常に読書に没頭した。彼は彼を診る医師よりも癌についてよく知っているケースが多かった。
ハンスとアグネータは絶対にあきらめないと決めていた。二人は解決策が存在しているかのように生き、アグネータはとにかく彼に食事をさせるようにし、たまの遊びも欠かさなかった。
ハンスは存命中、食事にあまりかまわなかったように、余暇もあまり重視していなかった。ソファでただ寝そべっているようなことは決してなかったのだが、晩年は横になることも覚えた。彼は亡くなる前の一年、携帯電話の歩数計をチェックしていた。
「少し歩かなくては」と彼は言い、廊下や台所を歩き回った。
その晩、私たちはアベコースという小さな漁村の港のそばのレストランに車を走らせた。スコーネ地方の田園風景を走りながら、海にはガチョウが浮かんでいて、雲は暗かった。
港のレストランはほぼ満席で、二人の男性がギターを弾き、歌を歌っていた。ここでアグネータとハンスは壁沿いにさりげなく置かれた小さなテーブルで、よく夕飯を食べたものだった。彼は他のお客さんたちに気付かれないように背を向けてはいたが、ウェイターに元気ですかと声をかけられると、きちんと答えていた。この場所にいる時だけはハンスは、好奇心を抑えることにしていた。
そうでもしない限りハンスは誰とでも議論をはじめてしまうのだ。それがスヴァルテの海岸に来ている人であろうと、ダボス会議に参加する世界の首脳たちであろうと、ナカラの病院の職員であろうと。
彼は人々のことや、物事がどう成り立っているのかを理解したがり、分かるまであきらめなかった。そして理解するやいなや、変えたいという意志が生まれた。彼はそれを自分の天命と受け止めるのだった。
アグネータは、ナカラの薬局の職員がピルの闇取引をはじめた頃、モザンビークに赴いた時の出来事を話してくれた。ある晩、近所の人がやって来て、玄関のドアをノックした。その人たちは通りの先の木の壁と木の床の簡素な小屋で暮らしていて、最近奥さんが子どもを産んだばかりだった。出産後、彼らはハンスとアグネータと話をした。その後も奥さんの方と交流を続け、その中で無料のピルを使うよう勧めたのだった。
でもある時、ピルはもう先生が言っていたように無料じゃなくなったので、貧しい自分たちには手が届かなくなったと夫妻が言いに来た。薬局がお金をとるようになったのだと。すぐにハンスはそのことを調べるため、聞いて回りはじめた。病院の複数の職員が同じ話を耳にしていた。薬局の職員がお金を着服していると。
その職員に好感を持っていたハンスはがっかりして、どうにかして罰せられないかと根気強く訴え続けた。皆の健康を誰かが妨げた時ほど、ハンスが怒り心頭になることはなかった。アグネータはハンスがある晩、家に帰ると、「野蛮な奴め」と悪態をついていたこと、男が裁かれるようハンスが手を尽くしたことを話してくれた。警察が協力してくれて、最終的にはその薬局の職員は一定期間、刑に服すこととなった。
しばらくしてからは、アグネータとハンスはその惨事を笑い話にできるようになった。ハンスは諦念のため息を漏らすこともあったが、心の奥底ではあきらめてはいなかった。
仕事が緊迫している時、彼はいつも周りの人に、こう叫ぶよう促した。
「夜通し進め!」
そして事態が絶望的と分かると、彼は笑って言うのだった。
「あきらめることはいつだってできる。だったら何も今あきらめなくてもいいじゃないか」
[書き手]
ハンス・ロスリング(Hans Rosling)
1948 年、スェーデン生まれ。医師、公衆衛生学者。世界保健機関とユニセフの顧問を務め、スウェーデンの国境なき医師団とギャップマインダー財団を共同設立。TED トークは3,500 万回以上再生され、タイム誌の世界で最も影響力のある100 人にも選ばれる。著書に全世界で100 万部以上を売り上げた『FACTFULNESS』(日経BP)がある。2017 年、68 歳で逝去。
ファニー・ヘルエスタム(Fanny Härgestam)
1983 年、スウェーデン生まれ。ジャーナリスト、作家。著書にアラブの春後のチュニジアの女性たちの生き様について書いた『これは私たちの時代』がある。
枇谷玲子(ひだに・れいこ)
1980 年、富山県生まれ。大阪外国語大学卒業。翻訳家。訳書に『鈍感な世界に生きる敏感な人たち』(ディスカヴァー・トゥエンティワン)、『きのこのなぐさめ』(共訳・みすず書房)ほか多数。