僕にとってのスポーツ人生とは
僕はいま、アスリートたちが年齢を重ねるにつれて、健康で競技ができる身体を保つために実にさまざまなことをしているという本を書いているんだ、と話すと、よくこういう問いが返ってきた──それで、君の生活でやっていることを変えるような、何か魅力的なことがわかったのかい?いい質問をしてくれるじゃないか。
僕はエリートのアスリートではない。運動は趣味ではあるが格別熱心にやっているわけでもない。サイクリング、ランニング、サッカー、テニスを楽しんでいて、でも、時間の許すかぎり運動したいのに身体がついていかないのが悔しい、中年に片足を突っ込んでいるふつうの男である。もし僕に、週に2回ほど、体力の限界をもう少し伸ばせて、ハイハイする娘と一緒に床を這いずりまわるくらいのエネルギーが残されるなら、それで満足なんだけどね。ある意味、そういう僕だからこそ、ちょうどいいフィルターになったんじゃないかって思う。トップのプロは、事実上制限のない予算を使い、しかも、起きている時間をすべて、より健康でスキルをアップさせるためだけに使うことができる。僕たちが見てきたように、トップ・アスリートは、選手生命をあと2年延ばすためになら、たいていのどんなことでもするだろう。たとえ科学的な裏付けがなかったり、後に健康を害したりするようなものであったとしても。赤外線を出すパジャマを着て酸素カプセルで眠るのに3万ドル支払いたければ、まあ、それもありだろう。けれども、効果があって安全で、しかも仕事持ちでもスケジュールや予算が合うものでなきゃね、というなら物書きを生業としているが、腰痛持ちで赤ん坊持ちのこの男(つまり、僕)を信用してみてくれないかい。
そうしてくれるなら、本書を書いてみてわかったことから、僕自身のパフォーマンスのルーティン──と言えるほどのものではないが──に加えたものをいくつかお教えしよう。
トレーニング計画は、とにかく区切ること。
レイモンド・フェルハイエン、ジェームズ・ガラニス、特にトレント・ステリングワーフの共通項として、僕の頭に何度も何度も教えこまれたコンセプトがあるとしたら、パフォーマンスを時期で区切ることの重要性と、そうしないことのリスクである。トップ・アスリートにとっては、パフォーマンスの区分とはたいていの場合、高性能に組み立てられたトレーニング・プログラムを意味する。トレーニングの量を増減して、必要な時期に最高の健康状態をもってくるようプランされた方法である。僕にとっては、こだわりたいのはその構成内容でなく原則である。一定の割合でしだいにトレーニングを増やしていき、自分で決めたプランの必要に応じて身体を準備する。そして、疲労の蓄積や、しなくていいような怪我をしてしまいそうな、回数や強度をいきなり上げるといったことは避ける、というふうに。サッカーに誘われても、僕がサッカーをできるような身体の状態でなかったとしたら、あるいは、なんとかプレーできそうな程度だとしても怪我を治している最中だとしたら、僕はノーと言う。自らベンチに下がるのは残念だが、怪我をしてシーズンをまるまる棒に振るよりはいい。どんなトレーニングでも、負荷を軽くして動きやすくする部分を作ること。
一流選手と僕たちのような一般人との最大の違いは、トレーニングが終わったときの取り決めをどうしているかだ。ストレンクス・コーチとアスレチックトレーナーは、「負荷を重くする」ことと「負荷を軽くする」ことについて、適切な割合で、前者をやった後は必ず続けて後者を行うべき、というのを良しとしている。僕には今、次の言葉が思い浮かんでいる。「負荷を軽くする」というのは、ヨガ、フォームローラーを使ったストレッチ、氷水風呂、水中ランニング、瞑想、または、ただ昼寝をする。それには、リカバリーとともに関節の可動域でのトレーニング──しだいに蓄積して怪我につながりそうな運動制限や他の箇所で代わりをするのを防ぐため──も含まれる。僕の場合、かつてはトレーニング後に軽く一杯やるのが正当なクールダウンと考えていたけれど、今やストレッチやセルフマッサージ「オタク」へと変貌してしまったわけで、クローゼットは、その「成果」であるストラップ、バンド、フォームローラー、ポリ塩化ビニルのパイプ、ラクロスのボールなどでいっぱいになっている。負荷を軽くして動きやすいトレーニングに時間を割くのは、忙しい生活を送っている人たちにはなかなか難しいことだ。1週間に数時間だけしかフィットネスに時間を割けないのであれば、走る時間をもう30分伸ばして、ストレッチは飛ばそうという誘惑にかられるだろう。しかしもし、あなたが僕みたいに怪我をしがちであれば、それはしてはいけない交換取り引きだ。二極化すること。
これは、トレントとヒラリーのステリングワーフ夫妻から聞いて、取り入れたもうひとつのことだ。思い出してほしいが、2つに分けるというのは、トレーニングのわずか20%かそれ以下を高強度にし、あとは、リカバリーをほとんどないしはまったく必要としない低強度のトレーニングでバランスを取るようにすることだ。これもまた、二極化の型にはまったプログラムに固執する必要はないが、トレントが言うような、エリート選手も含むアスリートがトレーニングでやってしまう最もありがちな間違い──低強度でトレーニングをする予定の日にも激しくしすぎる──だけは、どうしても避けたい。それをやってしまうと、特別な目的もないトレーニングでの疲れが取れなくなり、その次にハードにやりたくてもできなくなってしまう。もうひとつの点としては、僕の高強度のトレーニングは、以前よりも短くかつ強めにするようにしている。エリートの熟年アスリートたちを調べてわかるのは、歳を重ねても競技を続ける方法のひとつは、より慎重にトレーニングするようになっていることだ。自分にとって最も難しいスキルの訓練や体力維持のトレーニングのために、限られた時間に集中してやること。そのために、僕としては、付箋紙にプランを書き始めるまでに2分かかるというのが、いい準備になっているんじゃないかな。ちょっとした「志向性(哲学者フッサールの言葉。人間の意識が外部の世界の何かに対して注意を向ける能力のこと)」というやつだろうか。筋肉のために食べる。
もしかしたら、本文では十分明確になっていなかったかもしれないが、アスリートに広まっている栄養「科学」の非常に多くのものがでたらめだ。ふつうに健康的な食事──たっぷりの野菜と全粒穀物、多すぎない砂糖や加工食品──をしていれば、たぶん大丈夫だろう。けれども、歳を取るとともに筋肉が失われるのを避けたいのであれば、多少の微調整をするといい。アスカー・ジューケンドラップのアドバイスにしたがって、僕は食事のタンパク質を増やし、昼間の摂取回数を増やした(寝る直前にプロテインのシェイクを取るのは思いとどまっているが)。これには思わぬ効果もある。ジョンソン&ジョンソン・ヒューマン・パフォーマンス研究所の運動生理学主任のクリス・ジョーダンによれば、何でも食べるものにタンパク質を加えると、血糖値を下げる効果があるそうだ。つまり、シュガークラッシュ〔血糖値がジェットコースターのように急上昇・急降下すること〕を起こさずに、チョコチップ入りオートミール・クッキーを食べたいなら、アーモンドバターをひと塗りすればいい。僕はまた、毎日3〜5ミリグラムのクレアチン・パウダーを摂っている。スムージーや牛乳に入れて、トレーニングの直前か直後に摂ることが多い。クレアチンの科学的な意義を論ずるのは難しいが、僕の筋肉の維持や増強には非常に効果があった。自分と会話する。
それが、パフォーマンスを向上させる強力なツールになりうるとわかるまでは、僕は自分の内なる声などいちいちあまり気にしていなかった。でも今は考えている。漠然と自分を励ましたり、褒めたり、けなしたりするよりも、具体的に自分を挑発したり、自分に忠告したりしているときのほうが、ずっといいパフォーマンスができることに気づいたのだ。ランニングやサイクリングなど、1人になりやすいスポーツでは特に、自分との会話はしやすい。僕はまた、段階ごとの目標をイベントに見立てるメブ・ケフレジギの「わざ」も拝借した。バイクに乗ったときのすべてを記録してくれるストラバ(Strava)のフィットネスアプリも利用している。ハードにがんばろうと思うとき、アタックする「上り坂」にたくさんの目標を設ける──たとえば、新しい自己ベストを設定する、その日のトップ10に入る、その年のトップ5%に入る、などなど。ストラバでは、自分自身のこれまでの記録や、他の人たちの記録との競り合いが細かくわかる。力いっぱいは走れそうにないなと思っていても、そうした情報がない場合より、もっと、さらにハードに、と駆りたてられてがんばれたりするのだ。まだ始められる。
僕にとっては、本書こそが新しい始まりだったと思う。30歳を過ぎて僕はサッカーを選んだのだが、ヘタクソで、のろくて、へこまされてしまった。でも、それはそれで素晴らしかった。グラウンドでまた背中をひねってしまい、あまり激しすぎないスポーツのほうがいいのかなと感じて、それでサイクリング派になった。今では、週末には、丘の上に到達するまでにあとどれだけカーブがあるかしらと思いながら、息を切らして動かない足を呪いながら過ごしている。今はそれが素晴らしい。何十年も続けて、日々同じ方法で身体に挑ませることも、身体に克服させる効率のいい方法だ。でも、別の方法で挑戦してみれば、それがぴったりの回復薬になる。新しいスポーツを始めることには、言われている以上のことがある。僕は、トップ・アスリートの能力に感動したいし、たいていのエリートでない人たちと同じように、彼らの能力がうらやましい。けれども、彼らもまた、僕たちをうらやんでいるはずだ。偉大であることは重荷であり、それがすっかりなくなるとわかったときには、どれだけ自由になれるか。何か新しいことにトライしてみる必要もないし、しがみつかなくてもいいし、毎日少しずつ手を離していきつつキープしていてもいい。科学が若返らせてくれたり、もっと健康にしてくれたり、足を速くしてくれたり、大好きなことを上達させてくれたりする日が来るまで、僕たちは、僕たちの身近にあるものにこのままずっと親しんでいくことにしよう。
[書き手]ジェフ・ベルコビッチ(JEFF BERCOVICI)
ジャーナリスト。『New York times』, 『GQ』への寄稿、『Forbes』シニアエディターを経て、ビジネス誌『Inc.』のサンフランシスコ支社長。科学技術やIT関係を中心に担当している。