書評
『日本語の乱れ』(集英社)
気になる言葉づかい
評論ふうのタイトルだ。清水義範著『日本語の乱れ』(集英社文庫)。『もっとおもしろくても理科』『もっとどうころんでも社会科』(以上講談社文庫)『いやでも楽しめる算数』(講談社)と、科目別エッセイとでもいうべきシリーズが続いている著者のこと。その「国語版」かと思えば、さにあらず。小説集である。表題作は、こんな筋だ。ラジオのパーソナリティをつとめる主人公が、気になる日本語の乱れを、番組あてに送るよう、視聴者に呼びかけた。すると投書が来るわ、来るわ。それぞれ指摘はもっともなのだが、過剰反応ともいえる勢いに、主人公はげんなりする。なぜに、あれもけしからん、これもなっとらんと、皆が言いつのるような状況になるのか――くり返しになるが、これが小説なのである。
山本夏彦氏が『完本 文語文』(文藝春秋)で書いていたのを思い出す。他人の言葉の誤りを咎めだてするのは、つまるところ、オレはそんなことはしない、という自慢である。全日本人がひとつずつ誤りをあげつらったら、一億間違いだらけになる、と。
同じようなことを、コラムでも評論でもなく、小説で言ってしまっているところが、すごい。
この小説集、作品によっては、ストーリーがあるようでなかったりして、説明がかなり難しいのだが、著者だって、実験的手法を用いて、小説ではふつう取り上げないだろうテーマを、扱うことを試みているのだ。そのあたりが、なんとか伝わるよう、つとめたい。
いくつかの作品を、例に挙げる。「耳の言葉、目の言葉」は音声入力ソフトをめぐる、てんやわんやだ。音をそのまま文字にしたら、いかに間抜けなことになるかを通して、現代日本語も実はそれほど「言」と「文」が一致したものではないとわかる。
「たとえて言うならば」と題する一篇は、学校の先生どうしの言い争いだ。われわれがいかに議論がへたか、比喩を使うことで、議論をいかに感情的なものにしているかを、思い知らされる。
「絵のない絵日記」は、職場になかなかなじめない新入社員が、ついにキレてしまうまでの、心のつぶやきを綴ったもの。
(語彙が少なく、論理を組み立てることができないヤツは、行動も短絡的だ、やはり言葉は思考の基、読み書きをおろそかにしてはならん)
と、教育全般にまで思いは及ぶ。
なんて、あまりきまじめに読み込むと、おしまいの一篇「学習の手引き」で、読者の側の考えすぎをちゃかされることになる。この作品、さきの「日本語の乱れ」を教材にとり、学習のねらいや解答例をくだくだしく示した、国語教科書のパロディなのだ。
どんな本だか、なんとかおわかりいただけただろうか。早い話が、読んで面白がるうち、言葉を再認識するきっかけになればめっけもん、という小説集。笑えることは請け合いだ。
【この書評が収録されている書籍】
初出メディア

現代(終刊) 2001年2月号
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