解説
『私的メコン物語―食から覗くアジア』(講談社)
旅する味覚
私の味覚はちょっとズレているのか鈍感なのか、海外へ行っても、現地の味に割とすぐなじむ。その代わり、日本に戻ってから切り替えるのに時間がかかる。年配の男性の頭には、「日本人なら寿司が食いたくなるはず」との図式があるせいか、私が出入りする会社でもよく、出張から今さっき成田に到着しましたという人を、上司が、「おー、久しぶりだな、元気そうだな。何はともあれ寿司屋に行こう、寿司」
と、肩を抱くようにして連れ出したりするのを見受けるが、私からすれば、着いたその足で生モノなんて、とてもとても。体がまだ受け入れ態勢になっていない。
いきなり日本食ではなく、徐々に移行し、あくまでもソフトランディングで、社会復帰を果たしたいのだ。長旅ではなく、一週間足らずの旅でもそうだから、順応性が高いと言うのか、低いと言うのか。
帰ってしばらくは、旅先の食べ物が恋しく、「あの味が忘れられない」状態が続く。
「あー、あの台湾の、塩気の薄い、ごくごくと飲めるようなスープの麺が食べたい」
「丼いっぱいでなくていいのだ。小腹をおさえるくらいの、ちょっとした量を、散歩ついでに通りの椅子にふらりと掛けて、何十円かで食べられたなら、どんなにいいか」
現実には、ラーメン屋のカウンターで、洗面器のように、なりばかりでかい丼に顔から溺れそうになりながら、台湾の汁そばとは似ても似つかぬタンメンの濃ーい汁を、わびしくすする。
こうしたホームシックならぬ、フードシック、しかも家から旅先へという逆方向のフードシックにかかるのも、私が旅してきたのが主にアジアの国々だからだろう。アジアのメシの旨さは、今や定評がある。
基本的に米食だから、日本人にはすんなり入りやすいし、私がまた、現地メニューの中でも鶏、豚、魚といった、食材としてもなじみのあるものを、選んで食べていたせいもあろう。
しかししかし、私がアジアに出かけはじめた八〇年代後半は、かの地の料理をどれほど思い焦がれたとて、日本で食べられる店は少なかった。
ならば、自分で作ってしまおうとは、誰もが考えること。が、当時は食材もなかなか手に入らなかったのだ。
ベトナムの鶏うどん「フォー・ガー」を試みたときは、米から作る平麺の代わりに、きしめんを使った。薬味としては、コリアンダーに匂いがもっとも近いのはドクダミだけれど、まさか便所の裏にはえているのを碗にそのまま放り込むわけにもいかず、シソ、三つ葉、セリ、ニラ、ワケギ、アサツキ、カイワレ大根の先の部分と、およそ香りのある青い葉であれば、何でも入れてみた。
マレーシアのカレーうどん「ラクサ」にも挑戦した。日本のカレーうどんより汁が、赤く、甘く、辛く、油っこく、小麦粉を加えたわけではなさそうなのに、どろりとしている。甘さはココナッツミルクによるものと推定、赤みと辛みにはラー油、エビの発酵ペーストの代わりに干しエビのみじん切りを用い、コクを出すためピーナッツの刻んだのを混ぜた。
苦労に苦労を重ね、出来上がったのは、似て非なるもの。
「本場のラクサとはかなり落差があるな」
むなしいシャレを言い、力ない笑いで自分を慰めるほかなかった。
書店で、森枝卓士さんによる『食は東南アジアにあり』(弘文堂)と出会ったときは、
(これだ)
と唸った。東南アジアの歴史や文学の研究者であり日本へのよき紹介者、星野龍夫さんとの共著で、森枝さんは主にレシピ部分を担当していた。
ありがたいのは、日本で作るためのレシピであること。現地でよく使われる調味料について、そもそも何ぞやといった説明から、ないときは何で代用できるかまで書いてある。
(これぞ、私の求めていた本)
と、ふるいついたことは言うまでもない。
レシピはとても役に立ったし、すでに自分でトライしたものについても、
(私の考えたことは、そう的外れではなかったわ)
と報われた思いがした。ところどころにさしはさまれている、髪にカーラーをつけたまま豚の頭をゆでている女性などの写真も、臨場感があった。
行間から伝わってきたのは、「経験」の厚み。どこかの台所にいっぺんだけおじゃまし、ふんふんとメモしただけでは、こうはいかない。屋台で、店で、人の家で食べ、舌でしっかり覚え込み、その味に少しでも近づけるべく試行錯誤を重ねた末に、たどり着いたレシピなのだ。そこに至るまでには、数えきれぬ回数の食べ歩きの記憶と、限られた材料で再現するための、涙ぐましい努力のあったことは、想像がつく。頭だけでなく、足と舌と胃袋による取材。
初版の日付けを見て、また驚いた。昭和五十九年、一九八四年である。その頃はアジアブームなんてまだまだで、ブームが来た今だからこそ、「先見の明」とも言われようが、来なければ、単に「ご苦労さま」の本だ。
(こんな早い時期から、人々に受け入れられるかどうかは別問題に、ほんとうに自分のテーマとして、アジアを食べ歩いていた人がいたのだなあ)
と思った。
それを機に、『東南アジア食紀行』『東方食見聞録』(ともに徳間文庫)も読んだ。旅先で口にしたのが何ものか、どういう来歴があるのか、わからぬ私にとって、森枝さんの本は重要な参考書であると同時に、食のその向こうにある、経済や文化習慣の総体としての「暮らし」を理解するための、手がかりでもあった。
その彼が、そもそもなぜ食に関心を持つようになったか、すなわち「自分」を語ったのが、『私的メコン物語』(講談社文庫)である。
読んで、まず感じたのは、世代ということだ。
私にとっては森枝さんは「早くからインドシナに目を向けた人」だった。が、森枝さんとしてはむしろ「遅れてきた世代」との認識を持っていたことがわかった。ベトナム戦争のただ中に身を置いたジャーナリストたちの背中を、若きカメラマンは、常に見ていた。ベトナム戦争が終わったとき、彼は大学生、私は中学二年生であった。
人生の方向性を決めるとき、青春期にどういう「時代」と「場所」にいたかは重要だ。天体望遠鏡を覗くのが好きで、見たものを写しとりたい、残したい思いから一眼レフへと進んだ、典型的理科少年がフォトジャーナリストをめざすまでは、水俣で生まれ育ったこと抜きには、語れない。
高校生のときには、すでに公害病が大きな社会問題となっていた。アメリカ人の写真家ユージン・スミスも住み込んで、撮るという。「えらいカメラマンが来る!」、少年らしい興奮から、報道の世界を志す過程は、本書に詳しい。新聞社の試験には落ちたが、ひょんなことからメコンに出会い、カンボジア内戦を取材することになる。食べ物の話に健筆をふるう著者が、国境地帯を駆ける従軍記者として、地雷を踏みそうになったり、砲弾にさらされたりしながら、おびただしい死を目のあたりにしていたとは、知らなかった。
食への視点を得たのは、戦場から遠くない田舎町で。いつもと同じ、それしか食べるものがない屋台の料理を口に運びながら、「ふと思ったのだった。国際政治がどうこうといいながら、その土地の人々が何をどうやって食べているのかという基本的なことも知らなかったのだろうかと」。
そんな眼でメコンの両岸を歩けば、気づくことがたくさんあった。ラオスとの国境、タイのノンカイでは「東北タイの代表的料理を」と頼んだら、ラオスで食べたものと変わらなかった。資本主義、社会主義と体制は違っても、住んでいるのは同じラオ族なのだ。
一方、国境をはさんではっきりと違ったのは、パンだ。フランスの植民地だったラオスでは、朝の市場にも通りの角にも、バゲットが並ぶ。対してタイは、パンそのものが一般的でないし、あるとしてもイギリス式のトースト。この差異は、カンボジア、ベトナムと、かつてのイギリス植民地ビルマ(現ミャンマー)、マレーシアとの間でもみられた。
あるいはタイのナコーンパノムで。「センレック・ナーム」と、タイの汁そばを注文すると、ピーナッツや砂糖などの定番の調味料セットの代わりに、ニョックマムと唐辛子と、ライム、生の香草類が出てきた。名はタイ式でも、中身はベトナム。かつてのベトナム難民が住む町だった。
私には森枝さんの本が人々の暮らしを理解するための手がかりともなった、と書いた。が、この点に関しては、著者は確信犯だった。生活を知る手がかりを、読者に提供するために、食べ物について、レシピまでことこまかに書いた。
なぜならば、「調理法など知らない間は」色とりどりの果物や野菜があふれる市場も、写真家にとっては「漠然としたイメージカットというか、土地の人々の暮らしの雰囲気を撮影するのに最適の場所としてだけ、市場を見ていた」。それが、食という視点を得てからは「暮らしの中身が見えてくる思いだった」。
やがて「辛いだけだと思ったものが、酸味や甘味、あるいは旨味とのバランスの上に成立しているデリケートにして洗練された味の体系であることが見えてきた」。「酸味」や「甘味」を、宗教、政治、民族問題、歴史の語に置き換えてもいいかも知れない。そう気づいてから、難民やゲリラを追うかたわら、食の取材も、積極的にするようになった。
メコンと出会って二十余年。この間の変化は大きい。ベトナムが「料理のおいしい国」として日本の女性たちの間で人気の旅行先になろうとは、かの地を訪ねて十年にしかならない私にも、隔世の感がある。ソ連という国がなくなり、中国、ベトナムが市場経済の道をひた走るとは、ドミノ理論にまだリアリティーがあった頃に青春時代を過ごした著者には、想像もできなかっただろう。
日本の地方の企業城下町で、星が大好きだった少年の将来に多大な影響を及したユージン・スミスも、今は亡い。著者もまた、アジアを離れて、食そのものへとフィールドを広げてきた。屋台の世界の住人だった彼が、ワインにはまれば、高級レストランの味も覚えた。仕事も家族も増え、安宿に長滞在するといった旅のしかたも、かなわない。「アジアは水俣とともに、私の原風景になってしまったのだろうか」。還らぬ日々を懐かしむ著者は、少し寂しそうでもある。
なので、古くからのファンである私は「はげましのおたより」の代わりに、ふたつの言葉を贈ろう。ひとつは、森枝さんのたいせつな宝物だから、引用しては怒られるかも知れないが、ユージン・スミスが写真にしたためたという「君が今後、どのような道を歩むにしても、その道が正しいものであるように」、その一文を今いちど。
もうひとつは、シチュエーションはぐっと変わるが、私が「食は広州にあり」の広州を訪ねたとき、現地で宴席を設けてくれた、海外経験豊富な日本人男性の語った言葉だ。
「いろんな人と食事をともにした経験から言うと、知的で受容力のある人は、味覚に関しても柔軟だね」
そう、食のフィールドワークを支えるのは、健全な胃袋プラス、とらわれのない知性と人間性。それらを武器に、屋台、三つ星レストランの別なく、これからも食べて食べて、撮り、かつ書き続けてほしい。
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