書評
『万物観察記』(情報センター出版局)
万物を観察する
小雨のある日。傘をさして駅から歩き出した私は、あっけにとられて立ち止まった。頭にスーパーの白いポリ袋を、逆さにかぶった女性が、自転車をこぎ、目の前を疾走していった。手を通す穴を、耳にかけて……。なるほど、帽子としての使用法もあったか。他にどんな使われ方をしているのだろう。
『万物観察記』(岡本信也、岡本靖子著・情報センター出版局)を読みはじめたとき、そのワンシーンを思い出した。著者にしたら、あんなことも観察のきっかけか。「習慣からはみ出しているモノ、日常性を打ちこわしているモノにめぐり会うと、ドキドキしたり、好奇心がわく」人みたいだから。
市民グループの一員として、フィールドワークを続けて二十数年。考現学採集の方法を取り入れながら、街のあらゆるモノを見て歩く。
地下鉄車内での吊り革のつかまり方、壁のヒビ、廃品利用の植木鉢、落ち葉、ゴミ置き場。そこから浮かんでくるものは「モノと空間」「モノと時間」「モノとヒトの交点」……。
ヒトがモノと向き合うと、習慣が形成され、それらを通して、はじめて暮らしはリズムを得る。が、次々とモノを作っては、使い捨てていく現代では、習慣化される暇さえない。
白い発泡スチロールの箱に、黒ペンキで石垣を描き、庭先に置いた家。へんてこな箱、といってしまえば、それまでだ。が、それもまた、発泡スチロールという異物を、疑似石垣にすることで、なんとか生活の場になじませようという、この家の主のささやかな抵抗ではないか。
「フィールドワークをすればするほど、私たち(ヒト)は、物(モノ)との関係のとり方がわからなくなっているように思った」と著者。まことにモノは、社会の、時代の鏡である。
この鏡は、ひとりひとりの自己を映すものでもあるらしい。好奇心のおもむくところは、人それぞれ。フィールドワークするうちに「ああ、これが私だったのか」と、はたと気づくことがあるそうだ。外部観察から内部観察へ転ずる瞬間。「観物察己」、物を観て自己を察す、というのだとか。
おのれを見失いがちな、忙しい日々。せかせかと急いで歩くばかりでなく、たまにはこんな「考える足」になってみるのもよさそうだ。
初出メディア

週刊読売(終刊) 1996年6月9日
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