書評

『新編 表象の迷宮―マニエリスムからモダニズムへ』(ありな書房)

  • 2022/04/06
新編 表象の迷宮―マニエリスムからモダニズムへ / 谷川 渥
新編 表象の迷宮―マニエリスムからモダニズムへ
  • 著者:谷川 渥
  • 出版社:ありな書房
  • 装丁:単行本(241ページ)
  • 発売日:1995-12-00
  • ISBN-10:4756695418
  • ISBN-13:978-4756695413
内容紹介:
アルチンボルドからクレリチへ。「芸術と驚異の部屋」をくぐり、「幻想模倣」の表象空間を彷徨う「視」と「知」の冒険の旅。
思えば、本を買って読むという行為自体がその人の審美的態度を反映するという命題、つまり「君の本棚にある本を見せたまえ、君がどんな感受性をしているか言ってみせよう」という言表は、実に、我々団塊の世代を最後にして、有効性を持ち得なくなっているのではあるまいか。まず第一に、いまどき、本の選択にそうした意味づけを行っている読者がいるとは思えないし、また現代において、この詩人の、この批評家の、この作家の本を持っている人とならば審美的態度を共有できると確信できるような、そんな詩人や批評家や作家が存在しているとも思えないのである。

私の学生時代には、たとえば、澁澤龍彥の『夢の宇宙誌』『幻想の画廊から』、あるいは、ルネ・ホッケの『迷宮としての世界』、種村季弘の『吸血鬼幻想』などを新刊書店の一隅で手に取って、この本の面白さが理解できるのはおそらくは私一人だろうという若者特有の傲慢(ごうまん)な自負心を感じながらも、もし日本のどこかに、この本を選ぶという点において美的センスを共有し得る人間がいるとしたら、その人とはぜひ、友だちになってみたい、そしてそれが、可憐(かれん)な美少女であったりしたら、どれほどいいだろう、などと夢想にふけるようなことがよくあったが、こうした本を買うという行為への過剰な思い入れがあったのは、おそらく私一人ではなかったにちがいない。

当時は、もちろん、澁澤龍彥も種村季弘も、新聞の書評で取り上げられることなどまったくないマージナルな存在で、彼らの著書が文庫に入るなどということは想像だにできない状況だったが、その分、こちらの思い入れも強く、彼らの本は本屋の棚でそこだけアウラをはなっているように感じられた。家庭教師の金が手に入ると、羽仁五郎の『都市の論理』などというグロテスクな本が平積になっているコーナーは全く無視して、そちらの棚に直行したものである。

とはいっても、その頃でも、こうした審美的態度を共有できるような人と知り合うということは思いのほか少なかった。文学部などとはいっても、案外まともな精神の持主が多く、教師たちのなかにも、澁澤、種村という名前を出すと露骨にいやな顔をする者もいた。ところが、その頃には直接の面識はなかった人とずっとあとになってから何かのきっかけで知り合い、話し合ってみると、同じ著者の同じ本を同時期に、しかも同じ本屋で買っていたという事実が判明して、同時代的な連帯感をあらためて確認しあったことが何度かあった。これは現実の人間にかぎらず、書物を読んでいるときでも起きることである。


谷川渥氏が『バロックの本箱』(北宋社)についで上梓(じょうし)した本書はまさにこうした連帯感を覚えることのできる、数少ない書物であった。といっても、その連帯感は、必ずしも、そこで扱われている主題の多くが、澁澤、種村などに直接に関わっているということからのみきているのではない。もちろん、あとから述べるようにそうした面も多分にあるのだが、それ以外でも、多くの点で同時代的なコードを共有しあっているのを確認できる細部には事欠かなかった。いいかえれば、この著者の本棚の片隅には、今は埃(ほこり)をかぶって顧みられることはなくなってしまっているが、かつては著者の問題意識を方向づけたであろうような本が眠っていて、それがこの『表象の迷宮』の中で、一種の潜在的なバックグラウンドを構成しているのではあるまいか、と推測できるような箇所が少なくなかったということである。

たとえば、これは同時代の小説ではないが「皮膚の変容」という草間彌生論の中でへーゲルやヴィンケルマンなどに混じってなぜか唐突に召還される太宰治の「皮膚と心」という短編は、筑摩書房版の全集をかなり読みこんでいないと、そうは浮かんでこない名編である。

また、「無人の図像学」という魅力的な論文の中で、モンス・デジデリオやフリードリッヒの廃墟(はいきょ)画についての定義をあたえるために援用される、H・G・ウェルズの『タイム・マシン』は、おそらく一九七〇年前後に早川書房から出た世界SF全集で読んだものだろうと想像がつく。というのも、当時、私もこの全訳版で子供の頃の愛読書を読み返して、ウェルズのSFは十九世紀のどんなリアリズム小説よりも、その時代の思考形態を明らかにしていると感じたからである。

もちろん、同時代的な連帯意識はこうした細部にのみ発動されるのではない。それどころか、本書では、澁澤龍彥が『幻想の画廊から』で扱ったアルチンボルド、ピカビア、マグリット、デジデリオといった画家たち、あるいはピュグマリオン・コンプレックス、機械といった澁澤龍彥の《偏愛的》テーマに特権的な光が当てられているので、そこに私は、二十年という歳月を隔てて届いた観念の同窓会への招待状を見いだしたような気持ちになって、ある種の感動を覚えたのである。

思えば澁澤龍彥や種村季弘は、昆虫採集や鉱物採集の好きな大学生が小学生をあつめて、コレクションを見せるように、我々を書物の世界へと誘って、こうした観念のコレクションを眼前に披露してくれたのである。そのコレクションは、彼らの同時代の大人には理解し得ないガラクタにしか映らなかったが、我々少年たちにははっきりと宝物であることが理解できた。ただ、我々にとっては、そのコレクションはなぜか、手を出すことを禁じられた、とてつもない貴重品のようにも感じられたのである。いくら、アルチンボルドの「肖像画」の不思議さに感じいっても、あるいはルネ・マグリットの無時間的な冷たい夢に奇妙な感動を覚えても、それは澁澤龍彥や種村季弘が取り上げるから面白いのであって、我々の拙(つたな)い手でそれをいじったら、せっかくのコレクションが台なしになるのではないかという怯(おび)えがどこかにつきまとっていた。あるいは彼らが二人とも東京の生まれで、地方出身のオピニオン・リーダーのような教祖的雰囲気と無縁だったことも、単純な模倣(もほう)を妨げる原因になったのかもしれない。いずれにしても、彼らが一度ふれたことのあるテーマや作家は、われわれにとっては逆に取りあげにくいものとなったのである。その結果、我々の世代の人間たちは、澁澤龍彥や種村季弘から受けた影響を直接に出すことを抑圧し、それをむしろ記号論や精神分析などというマントで覆いかくすような振る舞いにさえ出た。それこそ、精神分析でいうところの《反動形成》である。

だが、不惑の年を迎えるころになると、さすがに我々もこの《反動形成》のマントに身をくるんでいることに疲れを感じるようになった。それに、こちらが年をとってくると、彼らが扱って完結してしまったかに思えたテーマや作家も、けっして養分を汲(く)み尽くされたのではないことがわかってきた。ならば《反動形成》の時に専門家として獲得した知識を総動員して、若い時に感動したテーマや作家を自分なりに扱ってみるのもわるくはない。否、むしろ、そうすることが、澁澤龍彥や種村季弘が貴重なコレクションを見せてくれたことにたいする恩返しになるのではないか。

谷川渥氏が敢えて今回、澁澤龍彥の影響が容易に透けて見えるテーマや画家を選んだ背景には、おそらくこうした心の動きが存在していたのではあるまいか。すくなくとも、私にはそう感じられた。

だが、こうしたテーマや画家たちを改めて取り扱うからには、当然、新しい視座を採用していなくてはならない。谷川氏の場合、おそらくその視座は奇想なり幻想なりという形で突然出現したかに見えるテーマも、プラトン以来のエピステモロジックな系譜のなかに置きなおしてみると、じつはいささかも唐突な変異ではなく、むしろ、認識論の変遷の必然的な帰結であるという仮説に要約されるものと思われる。


たとえば、果物や花をあつめて顔を描いたマニエリスムの画家アルチンボルドは、たしかにルドルフ二世の「芸術と驚異の部屋」の完成に寄与するために摩詞(まか)不思議な絵を描き続けていたにしても、はたしてホッケの言っているようにそのアレゴリーにはほんとうに裏がないのか。ホッケも澁澤龍彥も、なぜアルチンボルドが「顔」を描いたのか、そしてそれをルドルフ二世に献じたのかという素朴な疑問には答えようとしていない。これに対し、著者はアレゴリーには明らかな政治的意味があったとして、つぎのように書いている。

「皇帝に献呈された《四季》と《四大》の都合八枚の絵は、しかしなによりもまず、皇帝が帝国を、したがって人間を支配するように、さらに大きな四季と四大元素の世界を支配するであろうという小宇宙と大宇宙の照応の観念にもとづくところの皇帝へのオマージェとして描かれた。

では、なぜ、こうしたアレゴリーは、「顔」という形をとらなければならなかったのか。著者の答はこうである。

寓意を政治的観念から見れば、古代ローマ人がはじめカピトリーノの丘に要塞を設けたとき、そこに一個の『顔』を認めたというあの伝説と関係づけられよう。丘の名称はそのことに由来するが、それは顔ないし頭が身体の支配者であるように、ローマがまさしく『世界の首都』になることの前兆であった。同様にマクシミリアン二世に献呈された『顔』は、世界がオーストリア・ハプスブルク家によって永遠に統治されることを告げていることになろう。神聖ローマ帝国が事実上古代ローマ人となんの直接的つながりもなかったにせよ、いや、そうした危うい理念の上にも立っていたからこそ、この寓意は皇帝をはじめとするハプスブルク家の人々をよろこばせたものと思われる。

この解釈ひとつをとっても明らかなように、ホッケ、バルトルシャイティス、澁澤龍彥らの先達においては、彼らの「芸術と驚異の部屋」の中に列挙的にメトニミックに並べられていたにすぎないアルチンボルドのアレゴリーを、著者は、美学者としての素養を十分に活用することによってあくまでもメタフォリックに解読しようとしているのである。

メトニミックな列挙に甘んじるのを拒否するこうした著者の姿勢がもっとも鮮明に現れているのは、澁澤龍彥が偏愛していた十七世紀の画家、モンス・デジデリオの廃墟画について論じた「無人の図像学」の章だろう。著者は、専門であるベルクソンの「無」についての議論を踏まえて、廃墟画の本質について、次のように語っているが、これは私の知る限り、廃墟画についての最高の定義である。

廃墟の表象は、遠い過去の文明の記憶を保持しつつその過去と現在とを隔てる時間的距離を意識すると同時に、また現在をひとつの過去とするであろう遠い未来との間に横たわる時間的距離をも意識し、さらに過去と未来とのあわいに存在するこの自己なるものを相対化しうるような時間意識の成熟によってはじめて可能となる。廃墟画は、それゆえ始源のイマージュと終末のイマージュとを多少とも同時に『指向性』としてもつことになろう。

こうした方法論は、全編中の最大の力作、「表象としての機械」においても存分に発揮されている。この論文は私の目下の研究テーマである「万国博覧会」とも重なり合うところが多いので、もっとも興味深く読むことができた。

まずここで私が感心したのは、古代ギリシャにおける「機械」とは、実利目的の機械ではなく、「驚異的機巧」としての「機械仕掛けの神」であったという指摘である。すなわち古代ギリシャ社会においては奴隷制というものが存在していたため、あえて実利目的の機械を作りだす必要がなく、また人力に代わる機械が存在しても、それは機械的技術に対する知識人の軽蔑(けいべつ)を生み出す結果にしかならなかったが、こうした機械認識は、著者によれば、基本的には産業革命によって蒸気機関が生み出されることによって終わりを告げるという。

この時代は、われわれの文脈からすれば、二つの点でまことに際立っていた。ひとつは、自然エネルギーの解放と利用によって、たとえば百馬力の蒸気機関が約千人の奴隷の出力に相当するというように、なによりも機械が人間にとってかわってはるかに膨大な量の仕事を遂行するようになったという点である。しかもこの仕事は、もっぱら生産のための仕事であった。(太字、著者)

万国博覧会の主導的理念であったサン=シモン主義が掲げていた標語が、「人間による人間の搾取にかえて、機械による自然の活用を」というものであることを考えにいれるなら、こうした機械に対するコンセプトの転換はまさにコペルニクス的なものであったといわざるを得ない。また、著者が指摘しているように、機械がこの時点で木材を組み立てたものから金属を素材とするものへ変わったことも、万国博覧会研究の観点から見ると、きわめて重大な事実である。なぜならサン=シモン主義というものは、ある意味で「鉄の宗教」にほかならなかったからである。

さらに、著者が提起する機械美の問題も興味深い。すなわち、スーリオの説く、「機械美は合目的性にあり」という考えも、またギュイヨーの「機械は生命体にいちばん似たときに、いちばん美しくなる」という主張も、万国博覧会の目的のひとつが、活動中の機械の動きを観客に見せて、機能的に優れたものに対する物神的な愛を喚起するということにあった点を考えれば、ともにそれぞれ核心をついているといわざるをえない。

また、次の指摘は、デペイゼされた機械の集合であった万国博覧会が観客に与えた効果について、私に、もう一歩突っ込んだ考察を強いることになる。

ここで注意すべきは、機械が美たりうるためには、それがたんに活動しているだけでは十分ではなく、それにふさわしい『場』が必要とされることが示唆されていることである。いわば『地』があって、機械がはじめて『図』たりうるわけである。人は機械美ないしは機能美を云々するとき、往々にしてこのことを忘れがちである。機械を孤立的にとりあげて、その機能美を論じることはできない。それはなんらかの合目的的な文脈のなかに置かれて、はじめて意味をもちうるのだ。(……)たとえば、ガレージのなかでトラクターが動きはじめたら……活動は空回りし、自己目的化して、機械はたちまちそのグロテスクな相貌をあらわにするだろう。そのとき、機械が内包する多様な性格のうち、機械的な、あまりに機械的な『自動性』という性格が、ひときわ浮彫りにされるはずである。

もし、著者の言うことが正しいとすれば、デペイズマンの典型である「展示された機械」は、博覧会場ではけっして機能美をもちえず、むしろグロテスクな「自動性」を見せることになるが、それを見守っていた十九世紀の観客は、あるいは、そこに、コミックよりもむしろある種の畏怖(いふ)を感じたのではなかろうか。だとすれば、これはこれで一つの事物教育としての効果を発揮したとも言えるのである。


以上、本書の広範な美学的・美術史的なテーマに、正面から取り組むほどに素養のない私としては、現在の自分の関心のありように引き付けて勝手な議論をすすめる他はなかったのだが、これを機会にホッケや澁澤龍彥をもう一度ひもといて見て驚いた。本書に比べると、ホッケや澁澤龍彥は、いってみれば、単なる予告編にすぎなかったのである。著者はこの二十年、だてに齢を重ねてきたのではなかったのだ。この二十年間、こちらが怠けて昼寝をしているうちに、気がつけば、著者の背中ははるか遠くの点になってしまっていたといった感じである。『幻想の画廊から』や『迷宮としての世界』を本棚のどこかにしまっている同時代の方たちには、是非一度それらを取り出して、本書と読み比べてみることをお勧めしたい。たぶん、私と同じ感慨にとらえられることだろう。

できれば次作は、論文集ではなく、大きなテーマのモノグラフィーを読んでみたいものである。

【この書評が収録されている書籍】
歴史の風 書物の帆  / 鹿島 茂
歴史の風 書物の帆
  • 著者:鹿島 茂
  • 出版社:小学館
  • 装丁:文庫(368ページ)
  • 発売日:2009-06-05
  • ISBN-10:4094084010
  • ISBN-13:978-4094084016
内容紹介:
作家、仏文学者、大学教授と多彩な顔を持ち、稀代の古書コレクターとしても名高い著者による、「読むこと」への愛に満ちた書評集。全七章は「好奇心全開、文化史の競演」「至福の瞬間、伝記・… もっと読む
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新編 表象の迷宮―マニエリスムからモダニズムへ / 谷川 渥
新編 表象の迷宮―マニエリスムからモダニズムへ
  • 著者:谷川 渥
  • 出版社:ありな書房
  • 装丁:単行本(241ページ)
  • 発売日:1995-12-00
  • ISBN-10:4756695418
  • ISBN-13:978-4756695413
内容紹介:
アルチンボルドからクレリチへ。「芸術と驚異の部屋」をくぐり、「幻想模倣」の表象空間を彷徨う「視」と「知」の冒険の旅。

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