書評

『ゴールデンスランバー』(新潮社)

  • 2019/11/15
ゴールデンスランバー / 伊坂 幸太郎
ゴールデンスランバー
  • 著者:伊坂 幸太郎
  • 出版社:新潮社
  • 装丁:文庫(690ページ)
  • 発売日:2010-11-29
  • ISBN:410125026X
内容紹介:
衆人環視の中、首相が爆殺された。そして犯人は俺だと報道されている。なぜだ?何が起こっているんだ?俺はやっていない-。首相暗殺の濡れ衣をきせられ、巨大な陰謀に包囲された青年・青柳雅春。暴力も辞さぬ追手集団からの、孤独な必死の逃走。行く手に見え隠れする謎の人物達。運命の鍵を握る古い記憶の断片とビートルズのメロディ。スリル炸裂超弩級エンタテインメント巨編。

エンタテインメントの外部へ!

エンタテインメント小説のすぐれた書き手の作品に接するたび、同じ日本語によるフィクションでも、エンタテインメントという約束ごとの内側で書かれた文章と、外側で書かれている文章との間に横たわる、決定的な違いをいつも感じてしまう。これはどちらが優れているとか、上か下かという話ではなく、小説にとってもっと本質的なことにかかわる問題なのだが、なかなかうまく言葉にすることが難しい。

芥川賞と直木賞とに象徴される、「純文学」対「大衆文学」という伝統的な対立構図はもはや無意味だと私は考えている。それ以上に根深い問題として、いまは「エンタテインメント小説」と「エンタテインメントではない小説」の間にこそ、大きな溝があるのではないか。たとえば本屋大賞のような読者主導の賞が一定の影響力をもつのはいいとして、小説の作家までが「読者」を過剰に意識して作品を書くとなると、話は別である。

「エンタテインメント小説」とは、ひとことでいえば「娯楽商品」に徹した小説である。消費者=読者に奉仕することを第一義とし、それ以外のものとして存在することを、さしあたり断念して書かれるのが「エンタテインメント小説」だ。ようするに、マーケット志向型の小説である。一方、「エンタテインメントではない小説」とは、いまだマーケットの存在しないところに向けて書かれる、先行開発型の小説といえばいいだろうか。

もちろんあらゆる新人作家は、いまだ存在しない「自分の小説の読者」に向けて作品を発表する。だがエンタテインメント小説の場合、「自分の小説」をうんぬんする以前に、すでに特定の「ジャンル」というマーケットが存在する。そうした既成市場の需要を当て込んで書くようなタイプの作家に、私はさしあたり興味がない。もちろん、すべてのエンタテインメント小説の作家がそうだというわけではないが、エンタテインメントを志向した時点ではまりこんでしまう罠のようなものは、間違いなくあると思う。

では、伊坂幸太郎という作家はどちらなのだろう。『ゴールデンスランバー』は、私がはじめて読んだ唯一の伊坂作品であり、他に判断材料がないのだが、かなり特異な位相にいる作家であるように思える。エンタテインメント小説の作家は、あえて自らを職人的な立位置に置こうとする傾向がある。空疎な概念となりつつある「純文学」から自身を遠ざけるための身振りとしてなら、これまでそれは十分に機能してきた。だが、文芸の世界でも読者志向=マーケット志向が強まるなか、自らをあえて「エンタテインメント作家」と位置付けることがもつ意味は変容しつつあるのではないか。その意味でも、伊坂幸太郎という作家の存在は、「エンタテインメント小説」とは何かを考えるうえでの試金石といえるかもしれない。

これまでは伊坂幸太郎の小説に興味をもつことができなかった私も、今作に限っては刊行後すぐに読みたくなった。その理由は単純で、ビートルズの『アビー・ロード』(事実上のラストアルバム)に収められた曲名からタイトルがとられているからであり、また、一九六三年に実際に起こったケネディ大統領暗殺事件の枠組みを借りた、一種の「偽史小説」を標榜しているからだ。

ケネディ大統領とビートルズ。

一九六〇年代という時代を象徴するふたつの巨大なポップイコンを、一九七〇年代生まれの作家が、もの怖じもせずに作中に織り込む。それは「エンタテインメント小説」の書き手であることをプライドとともに引き受け、その枠組みのなかで最大限のことをやってやる、という宣言だと私は受け止めた。

言うまでもないが、ビートルズというバンドはロックンロールという音楽産業における「娯楽商品」の枠組みのなかで活動を開始し、一作ごとにその枠組みを破壊しながら成長し、最終的にその外部に出た偉大な先駆者である。本書の表題はそのビートルズの最終到達地点でつくられた楽曲からとられている。そのことを作家自身が意識していないはずがない。であるならば、伊坂幸太郎が「エンタテインメント小説」という枠組みのなかで、どれほどのことをやろうとしているのかを、しっかり見届けてやろうと思ったのである。

しかし私のそんな思いこみは、読みはじめて早々に肩すかしにあった。ケネディ大統領暗殺事件は、いわば二十世紀最大の神話のひとつであり、この事件を題材に大作『アメリカン・タブロイド』を書いたエルロイをはじめ、多くの作家の想像力を刺激してきた。その気さえあれば、偽史小説としてのディテールをいくらでも掘り下げられたはずだ。だが伊坂幸太郎は、ケネディ暗殺にまつわるあれこれを平気ですっとばし、「オズワルドにされるなよ」というシンプルな行動原理に落とし込むだけで、ケネディ暗殺事件のもつ神話性などには目もくれない。これには正直言って、かなり驚いた。なにか根本的なところで、伊坂幸太郎と私はすれ違っている。

この小説の舞台は、高度監視社会と化した「もう一つの日本」の「仙台市」である。そこで起こる事件そのものと同様、この「仙台市」の印象もきわめて稀薄である。たとえば阿部和重が『シンセミア』を始めとする神町(じんまち)サーガの舞台として描いた「神町」が、その圧倒的な狭さにもかかわらず、巨大な空間と時間の広がりを感じさせるのと比べ、伊坂幸太郎の描く「仙台市」は、まるで書き割りのような町として描かれる。では、物語中の「日本」はどのような国か。このイメージもまた、最後まではっきりしない。はたして長期にわたる「労働党政権」下はいかなる時代だったのか。それは一種の社会主義国家だったのか。もしそうであれば、この世界では第二次世界大戦はどのような結末で終わったのか。それらを描くことに、伊坂幸太郎はほとんど興味がないように思える。

つまり、この小説をフィリップ・K・ディックの『高い城の男』や、スティーヴ・エリクソンの『黒い時計の旅』のような、偶話性の高いパラレルワールドSFだと思って読み進むと、やはり大きな肩すかしに合うことになるのだ。伊坂幸太郎の描く世界は、ディックやエルロイやエリクソンといった二十世紀後半のカリフォルニア的狂気を背負った作家や、その狂気の一端を感じさせる阿部和重のような作家の想像力が描き出す世界とはまったく異なるのである。

では、本作『ゴールデンスランバー』はどのような小説なのか。それは、なによりもまず、小さな人間たちの物語である。それも、たとえば「卑小な」といった言い方が喚起するような、対比されるべき巨大な社会なり権力を前提とした「小ささ」ではなく、それ自体を無条件で肯定するような意味での「小ささ」なのだ。

小さな人間の筆頭として挙げられるのは、金田首相暗殺の実行犯として追われる、主人公の青柳雅春である。元宅配便のドライバーである彼は、かつて配送先のマンションでアイドルタレントが暴漢に襲われそうになったところを救助したことで、いちやくメディアの寵児となった経歴がある。だが、その過去も次第に忘れられ、いまは再び市井(しせい)の人間として暮らしている。

金田首相が「仙台市」で暗殺される直前、犯行現場の近くで青柳雅春はかつての親友である森田森吾と再会する。青柳にとって森田は、時代の一足先を読んで自分を導いてくれる信頼すべき友であり、いわば「小さな」存在である青柳に、その外部にある社会の広がりを示唆してくれる役割を演じる。青柳は森田から、自分が首相暗殺犯の濡れ衣を着せられようとしていること、森田自身がそのでっち上げ工作に関わっており、いますぐ逃亡しなければ青柳の身が危ういことを知らされる。そして森田は、そのことを青柳に伝えた直後、爆死してしまう。

森田と青柳は、大学時代に所属した「ファストフード研究会」というサークルの仲間である。宅配便やファストフードは、この小説の全体を覆う「小ささ」の象徴といってもいい。同じサークルに所属していたかつての恋人や後輩、そして宅配便ドライバー時代の元同僚が、それぞれのやり方で青柳雅春の逃亡を助ける。ビートルズの曲でいえば、まさに「ウィズ・ア・リトル・ヘルプ・フロム・マイ・フレンズ」である。つまりこの小説で伊坂幸太郎が描こうとしたのは、いわばごくごく身近な、スモール・サークル・オブ・フレンズによって演じられる群像劇なのだ。

この小説は、昨今の「エンタテインメント小説」でもてはやされることの多い、複雑なプロットを周到に練り込んだ作品ではない。主人公の学生時代、事件当日、事件の三か月後、二十年後など、物語の時制を幾度も切り替え、その都度、物語の語り手を切り替えていくことで、破綻しそうなプロットをかろうじてつなぎ止めているといったほうがいい。この小説の題名の由来である、「ゴールデン・スランバー」という曲が収録されたビートルズのアルバム『アビー・ロード』のB面がまさにそうであるように、ひとつひとつは独立した楽曲になり得ない、それぞれが別の方向を向いた「小さい物語」の断片を力技でひとつの物語にまとめ上げ、肯定的なメロディを鳴り響かせようとする試み、それが『ゴールデンスランバー』という小説なのだろう。

この小説の魅力はだから、舞台となる世界の大きな社会構造を描こうとする部分ではなく、政治にも経済にも見捨てられ、まさに「ファスト風土」のただなかで暮らさざるをえない人々への共感に満ちた目線で書かれている部分にある。家族や友人や同僚といった「身内」以外で、青柳の逃避行を決定的に助けるのが、連続殺人犯の「キルオ」であり、殺された地元出身の若き首相の名前さえ知らない通りすがりの女であり、青柳が逃亡中の容疑者であることを知りながら応援しようとする不良少年たちであることは重要だ。これら社会の底辺に生息する「小さな」者たちだけが、監視社会と化した異様な世界のなかで、例外的に健全な存在として描かれている。

私の考えでは、この小説はたったふたつのメッセージを伝えるためだけに存在している。作中で幾度も繰り返される「人間にとって最大の武器は、習慣と信頼だ」「小さくまとまるな」がそれである。言い換えるなら、性善説とポジティブシンキングと一種の保守主義。すぐに気づくとおり、これらは二十世紀後半的=カリフォルニア的狂気からもっとも遠いものだ。なかでも際だつのは、底抜けともいえる性善説だろう。同じく保守主義的な感覚をもちつつも、ノワールさをも持ち合わせた同世代の作家、舞城王太郎と比べてみると、伊坂の特異さがよくわかる。「性悪説」に基づく舞城の世界は、放っておけばどんどん悪くなる。だからこそ、舞城の作品では主人公が血みどろになって戦わざるをえないのだが、それでも決して世界の崩壊を完全にとどめることはできない。対して伊坂幸太郎が描くのは、連続殺人犯でさえもが一種の「善人」として現れるような世界なのだ。

冒頭の問いに戻ると、私は決して『ゴールデンスランバー』を、自分が読みたいと求めているような作品とは思わないし、「エンタテインメント小説」の枠組みを壊すような野心作とも思わない。だが、その一方で、王道を行くウェルメイドな娯楽作品だとも、エンタテインメントに安住した作品とも思わない。なぜならこの小説の主人公の前に立ちはだかる壁は、書き手である伊坂幸太郎自身が自分に向けた問いでもあるからだ。「エンタテインメント小説」の世界のなかで「小さくまとまる」ことへの怖れを、誰よりも切実に感じているのは作者自身だろう。

「習慣と信頼」というささやかな武器によって、世に蔓延する恐怖や不信やテロリズムに抗するのは、決して生ぬるい態度ではない。むしろその逆で、とてつもなくハードで困難な道である。家族や友人や同僚で構成される「小さな」世界は性善説で描きうるとしても、その外にある広い世界を、「習慣と信頼」だけで生き抜くさまを説得力をもって描くには、性悪説で同じことを表現するのに比べ、数百倍もの力がいる。『ゴールデンスランバー』は、そのことに果敢にも挑んだ作品というべきだろうか。

伊坂幸太郎はジョン・レノン的なシニシズムやセンチメンタリズムからもっとも遠く、ポール・マッカートニー的なロマンチシズムとマニエリスムの資質を豊かにもった人だろう。この小説ではその最良の部分と限界とが、ともに露わになっている――ちょうど『アビー・ロード』のB面がそうであるように。

【単行本】
ゴールデンスランバー / 伊坂 幸太郎
ゴールデンスランバー
  • 著者:伊坂 幸太郎
  • 出版社:新潮社
  • 装丁:ハードカバー(503ページ)
  • 発売日:2007-11-29
  • ISBN:4104596035
内容紹介:
仙台で金田首相の凱旋パレードが行われている、ちょうどその時、青柳雅春は、旧友の森田森吾に、何年かぶりで呼び出されていた。昔話をしたいわけでもないようで、森田の様子はどこかおかしい。訝る青柳に、森田は「おまえは、陥れられている。今も、その最中だ」「金田はパレード中に暗殺される」「逃げろ!オズワルドにされるぞ」と、鬼気迫る調子で訴えた。と、遠くで爆音がし、折しも現れた警官は、青柳に向かって拳銃を構えた-。精緻極まる伏線、忘れがたい会話、構築度の高い物語世界-、伊坂幸太郎のエッセンスを濃密にちりばめた、現時点での集大成。

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ゴールデンスランバー / 伊坂 幸太郎
ゴールデンスランバー
  • 著者:伊坂 幸太郎
  • 出版社:新潮社
  • 装丁:文庫(690ページ)
  • 発売日:2010-11-29
  • ISBN:410125026X
内容紹介:
衆人環視の中、首相が爆殺された。そして犯人は俺だと報道されている。なぜだ?何が起こっているんだ?俺はやっていない-。首相暗殺の濡れ衣をきせられ、巨大な陰謀に包囲された青年・青柳雅春。暴力も辞さぬ追手集団からの、孤独な必死の逃走。行く手に見え隠れする謎の人物達。運命の鍵を握る古い記憶の断片とビートルズのメロディ。スリル炸裂超弩級エンタテインメント巨編。

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