書評

『八日目の蝉』(中央公論新社)

  • 2020/04/23
八日目の蝉 / 角田 光代
八日目の蝉
  • 著者:角田 光代
  • 出版社:中央公論新社
  • 装丁:文庫(376ページ)
  • 発売日:2011-01-22
  • ISBN-10:4122054257
  • ISBN-13:978-4122054257
内容紹介:
逃げて、逃げて、逃げのびたら、私はあなたの母になれるだろうか…。東京から名古屋へ、女たちにかくまわれながら、小豆島へ。偽りの母子の先が見えない逃亡生活、そしてその後のふたりに光はきざすのか。心ゆさぶるラストまで息もつがせぬ傑作長編。第二回中央公論文芸賞受賞作。

子を生す「母」たちの家

綿矢りさの『夢を与える』や桜庭一樹の『少女七竈と七人の可愛そうな大人』『赤朽葉家の伝説』など、このところ若手女性作家の手による、二世代あるいは三世代にわたる母と娘の物語が目につく。

第二次世界大戦後、一九四七年の改正民法によって戦前の「イエ」制度から解放された後も、日本人は「ファミリー(家族)」と「ハウス(家屋)」と「ホーム(家庭)」をひとまとめにした幻想としての「家」を追い求め続けてきた。多くの人はいまなお「家」のなかで、何がしかの家族(血族か姻族)を構成して生きており、家族以外のもの同士が共棲することに対して、どこか警戒の目を向ける習慣が残っている。それは逆に、家族が単なる無色透明な人間関係の束に解消できないくらいに手ごわく、根深いものであるという意識を、私たちが共有していることの表れだろう。

しかしいまや、理想的な「家」のあり方を誰もが描くことができなくなっていることも、もう半面において事実である。だれもがそのような「家」が幻想であることを知っているにもかかわらず、それ以外の暮らし方を考案できないからこそ、「家」は強固な規範として私たちを縛り付けているのだ。では、「家」や「家族」のあり方が揺らいでいる時代に生きる人間が、「なぜ私はこの人の子なのだろう」「親なのだろう」という家族の存在の根源に触れる問いを抱いてしまったとき、その答えはどこに探したらいいのか。そのときに頼るべきは血縁なのか、それとも、ともに長い時間をすごしたという事実のほうだろうか。

角田光代の新作『八日目の蟬』には、ほとんど女たちしか登場しない。これは女たちによる女たちだけの物語である。この小説で作者は、女だけでできあがった世界でも、ホーム(家庭)と呼べる場所は成り立ちうるのか、という問いに対する答えをさがしている。

バブル経済の始まる直前の、一九八五年という微妙な時代からこの物語の第一部ははじまる。微妙な時期だというのは、この時代に「家屋」が定住の場所から投機の対象となり、人と人とを結びつける絆が愛情ではなく消費になったことが、実質的な「家」の崩壊を推し進めていったように、私には思えるからだ。

物語の主人公は、当時二十九歳の野々宮希和子という女である。希和子はかつての不倫相手であった秋山の妻が産んだ生後半年あまりの女の赤ん坊を略取し、逃亡する。希和子が秋山の子を奪ったのは、偶発的な出来事だったと作品の中では説明されている。「あの人の赤ん坊を見るだけ」、それで「すべて終わりにする」。そのつもりで秋山の留守宅に侵入した希和子は、まったく濁りのない目で自分を見つめる赤ん坊が笑った瞬間、なぜか「私はこの子を知っている。そしてこの子も私を知っている」と思う。

希和子はかつて秋山の子を孕み、堕胎したことがある。生まれるはずの自分の子供が男でも女でも通用するようにと、秋山と二人で考えた「薫」という名を、希和子は奪った子に与える。以後、この小説の第一部ではこの女児は「薫」として描かれつづけることになる。

彼女の逃走を結果的に支えるのは、女たちの擬似家族的なネットワークだ。自分のアパートの部屋を解約し、子育て経験のある女友達の康枝のところにしばらく身を寄せた後、希和子は名古屋で出会った老女の住む古い家に転がりこむ。ここが希和子と「薫」にとってつかのまの「ホーム」となる。

この家で希和子は自分の犯した犯罪が報じられた新聞をはじめて目にする。記事は事件の直後に秋山の家から出火したとも報じているが、彼女には火の出所にまったく心当たりがない。じつは、ここは重要な伏線である。

名古屋で老女の住む家はもともと彼女のものだったが、権利がすでに他人に渡っており、立ち退きを迫りにきた老女の実の娘が希和子たち「母子」の存在に気づいてしまう。警察への通報をほのめかされたことで、希和子はこの家にもいられなくなる。

行き先をなくした希和子にとってようやく安住の地となるのが、宗教団体「エンジェルホーム」である。希和子は康枝の家で、すでにその存在を知っている。あやしげな団体だとの認識をしていながら、このホームのメンバーと偶然出会ったときに希和子がためらうことなく入所を志願するのは、そこがまぎれもなく社会の外にある場所だからだ。

ホームへの入居にあたり、希和子は亡父から相続した四千万円と自分の預貯金を放棄する。このとき希和子は文字通り、俗世を捨て「出家」したことになる。希和子と女児は「母子」としての関係を断ち切られ、「薫」はホームによって「リベカ」というホーリーネームを与えられる。エンジェルホームで「薫」は周囲から「リカちゃん」という愛称で呼ばれて育つ。

しかし、エンジェルホームが希和子にとって安住の地、つまり「ホーム」でありえたのはわずか二年半のことでしかない。ホームに対する社会からの批判が高まり、行政機関の立ち入りにより自らの正体が明かされ、「薫」との関係が断ち切られることを恐れた希和子は、「薫」を連れてホームから脱走を図り、成功する。

別れ際に信者仲間の久美から託されたメモを頼りに、久美の故郷・小豆島にわたった希和子は、そこで「薫」とともに過ごすことのできる、はじめての普通の生活を得る。しかし、希和子を見初めた地元の男のある行為によって彼女と「社会」との接点が復活してしまい、長かった希和子の逃亡生活に終止符が打たれることになる。ここまでが第一部、「母の物語」である。

第二部の舞台となるのは、希和子と「薫」が別れてから十七年後の二〇〇五年である。三年の空白の後、秋山家に戻った「薫」は、すでに大学生になっており、本来の名前である「秋山恵理菜」として暮らしている。

エンジェルホームにいた頃の記憶をすっかりなくしている恵理菜のもとを、ホームで一緒だったという千草という女が訪れる。ホームの本を書くのだ、という千草の問いかけに答え、彼女が収集したホームをめぐる週刊誌や新聞の記事のファイルを読み進むうち、恵理菜のなかで「母」つまり希和子が生きた人生が巻き戻され、再生されていく。その作業を通じて、恵理菜は妻子ある岸田という中年男との関係を清算できずにいる自分が、「母」とそっくりであることに気づく。

秋山の家は、希和子が赤ん坊の恵理菜をさらった後に起きた原因不明の出火が象徴するように、理想的な「マイホーム」としてはすでに終わっている。自分がいなくなった後に生まれた妹・真理菜と父母が三人で住む家に、家族と離れて一人暮らしをする恵理菜がわざわざ岸田の子を孕んでいることを伝えに行くのは、父母の家はもはや誰にとっても「ホーム」ではない、という残酷な事実を突きつけるためである。しかし、希和子と娘が同じ運命を繰り返していることに気づいて泣き崩れる実母の姿を見て、恵理菜は自分たちが「どうしようもなく家族であったこと」を思い知らされる。

では、かつての希和子と恵理菜(薫)の関係は、はたして「家族」と呼べるだろうか。二人は血族でも姻族でもないから、正確に言えばファミリーではないし、二人がともに暮らすことのできるハウスもいまはない。二人を結びつけるのは、一時的であれ「ホーム」を共有したことがある、という経験的事実だけである。

エンジェルホームの取材を続けるうち千草は、ホームの真の目的はそのなかで純粋培養された子どもを教祖の跡継ぎにすることにあったのではないか、希和子が犯罪者であることを承知の上で、ホームはその目的を成就するために二人を受け入れたのではないか、と考えるようになる。しかし、その仮説を確かめるすべはもはやない。

かつてエンジェルホームがあった場所の鉄格子の門は閉ざされ、人(ひと)気(け)もすっかりなくなっている。しかし恵理菜と千草は、いまなお「向こうから観察されている気」がしてならない。女たちだけのユートピアを目指したエンジェルホームは、誰にとっても真の「ホーム」にはなりえなかったことがここで示される。

では、いまの時代に「ホーム」は、どのような場所でなら成り立つことができるのだろう。第二章は、この答えを探すための過程であり、第一章はそのための長い長い序章にすぎない。

実刑判決を受けて服役した後、社会復帰した希和子は、再び小豆島を目指す。彼女にとって、エンジェルホームで知り合った久美の母に雇い入れられ、つかのまの平凡な日常を楽しんだこの島は唯一「ホーム」と感じられる場所だったからだ。

この場所の記憶をかすかに持ち続けている恵理菜=薫にとっても、ここは「ホーム」と感じられる場所である。未婚の母となる恵理菜は、自分とやがて生まれてくる子供が送っていく人生を、この場所を訪れることで肯定的に感じることができるようになる。「家族」ではないもの同士の間でさえ「ホーム」と思える場所をつくりえた以上、母子二人きりの「家族」にだってそれは可能なはずなのだ。

こうして、「家」と女をめぐるこの物語は大団円を迎えることになるのだが、私が気になるのは、なぜこの小説で、こうまでして徹底的に男が排除されなければならないのか、ということだ。

ファミリー、ハウス、ホームという「家」のもつ三つの要素のなかで、ホームはもっともあやふやな存在である。ファミリーとハウスはとりあえず時間的・空間的に「家」の範囲を画定してくれるが、ホームはその両者が交差したところに生まれる、一時的な場所でしかない。その一時的な場所を世帯主の終身雇用とひきかえの「終身負債」によって購い、固定化したのが「マイホーム」だった。言い換えるなら、マイホームとはたんなる家族(ファミリー)の住む家屋(ハウス)のことではなく、愛情と財産をたえず未来に相続していくことによって維持される経済=愛情共同体としての「家」を可視化したものだった。だからこそ寺山修司はかつて、あれほどまでにマイホーム主義を批判したのだ。

いまや誰も、いまさら自分たちの家族を「マイホーム」などとは呼ばない。しかし、現在いたるところで見られる「家」の崩壊とは、核家族と終身雇用システムが支えた戦後型「家」システム総体の崩壊であり、そこに立ち現れているのはまさに幻想としての「マイホーム」の終焉なのだ。希和子自身がやったのかどうかが暖味にされたまま秋山の家が炎上しなければならなかったのは、この小説が全力で否定しようとしているのが、そのような意味での「マイホーム」と、その司祭としての男だからである。

「マイホーム」の終焉は、必然的に「家」における男の役割の喪失をもたらす。「家」をめぐる現代の物語に男が登場するとすれば、複数の女たちの物語を混線させるための装置としてにすぎない。したがって現代におけるファミリー(家族)の物語は、その最終的な根拠となる血族、つまり母から娘へという血のつながりの物語として語るしかなくなっていく。

綿矢りさにしろ桜庭一樹にしろ、あるいはかつての角田光代にせよ、多くの女性作家が母と娘の間の相克を描くことで現在の家族像の変容を示そうとしているのは、かつて日本近代文学が「父と息子の相克」を描いてきたのと同様の、歴史的な必然である。

しかし、角田光代は『八日目の蟬』で、その先に一歩踏み出している。この作品の根底にあるのは、血縁にもとづかない「家族」は可能か、そこに真の愛情はありうるかという問いであり、作者が出した結論は「ある」なのだ。

『八日目の蟬』という不思議な表題は、通常は七日で死んでしまう存在がその運命を生き延びたとき、その日にはいったい何が見えるだろうかという問いかけでもある。蟬とは、私たちのなかにある「家」や「家族」についての幻想のことでもあるに違いない。
八日目の蝉 / 角田 光代
八日目の蝉
  • 著者:角田 光代
  • 出版社:中央公論新社
  • 装丁:文庫(376ページ)
  • 発売日:2011-01-22
  • ISBN-10:4122054257
  • ISBN-13:978-4122054257
内容紹介:
逃げて、逃げて、逃げのびたら、私はあなたの母になれるだろうか…。東京から名古屋へ、女たちにかくまわれながら、小豆島へ。偽りの母子の先が見えない逃亡生活、そしてその後のふたりに光はきざすのか。心ゆさぶるラストまで息もつがせぬ傑作長編。第二回中央公論文芸賞受賞作。

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