書評

『ツリーハウス』(文藝春秋)

  • 2019/10/28
ツリーハウス / 角田 光代
ツリーハウス
  • 著者:角田 光代
  • 出版社:文藝春秋
  • 装丁:文庫(483ページ)
  • 発売日:2013-04-10
  • ISBN:416767209X
内容紹介:
謎の多い祖父の戸籍――祖母の予期せぬ“帰郷”から隠された過去への旅が始まる。すべての家庭の床下には戦争の記憶が埋まっている。

「暮らし」をつなぎとめる小説

四百数十ページの分厚い一巻だが、長さが少しも負担にならないばかりか、不思議なくらいすいすいと読めてしまう。単にリーダビリティの高さというだけではない、リアルな手応えが確かに伝わってきて、いよいよ引き込まれた。

新宿に店を構える中華料理店「翡翠飯店」、親子三代の辿った道のりを、祖父母の満州での出会いにさかのぼって綴る。戦争があり、敗戦後の苦闘があり、昭和の経済成長があり、そして二十一世紀の日々がある。歴史の激動とクロスする物語という体裁の、これまで以上に大きなスパンを持つ作品に挑みながら、その文章はあせらず急がず、落ち着き払ったゆるぎなさを示し、大勢の人物たちの足跡を簡潔に、印象深く描き出していく。角田氏がいま享受している創作力の充実ぶりを感じないわけにはいかない。しかも堂々たる構えの背後には、おそらく、「歴史」も「物語」もそんなにやすやすと手に入る代物ではないという作者の覚悟がある。実に面白く読み進めることのできる本書が、しかも明晰で鋭利な反省意識を感じさせるのはそのためではないかとぼくは思うのだ。

どうもうちはほかの家とは違っている、親も子もあまりに無頓着で「流されすぎ」だ。祖父が死去してもだれ一人涙する者もいないことに苛立ちながら、孫の一人である良嗣がそう思い至ったところに本書の出発点はある。考えてみると自分の家の成り立ちについて何も知らない。なぜうちには親戚がいないのか。祖父母はどこで生まれたのか、都心で中華料理屋など開くことができたのはなぜか。「しゃっくりみたいにあふれ出てくる」疑問に促されて、良嗣は一家の根拠を問おうとする。やはり夫の死によって昔が懐かしくなったらしい祖母のお供をして良嗣が大連に旅をするところから、歴史がひもとかれていく。

その際注意すべきは、歴史=物語は良嗣によって解明され、詳述されるわけではなく、彼の旅と並行するかたちで、読者の眼前にのみ開示されるという点である。「ホテルの部屋から良嗣は家に電話をかけた」といった、良嗣を視点人物とする現在時の記述と、「日本軍はハワイの真珠湾を攻撃し、大東亜戦争が勃発していた」といった客観的記述が交互に現れ、共存する。過去のドラマは、三代目の次男たる良嗣のあずかり知らないかたちで仔細に語られていくのだ。

この二種類の語りの並存をどう考えるべきなのか、一瞬、戸惑った。その戸惑いは、そもそも、一家の歴史をめぐる疑問にとらわれた良嗣という人物の役割を、こちらが誤解したまま読み出したことから生じたようだ。自分たちが「いったいどんなふうな経緯をたどって今ここにいるのか」を知りたいと願う彼が、祖母に導かれながら、一家の歴史の秘密を自らの手で、沈黙と忘却の淵から掬いあげる物語になるものと思い込んでいたのである。

ところが良嗣自身は「探偵」として華々しく活躍するわけでは毛頭なかった。そしてまさにその点に、本書の重要な特徴があるのではないか。

子や孫の世代が、親の世代の出来事を掘り起こす。それが昨今、ヨーロッパの小説のメインストリームを形作っていることは、ゼーバルトの『アウステルリッツ』を始め様々な実例が示すとおりだ。それらはほとんど常に、冥府へ降りてゆくオルペウスよろしく、過去の闇に下ってゆく主人公の冒険によって物語が獲得されるというパターンを踏んでいる。そのパターンがこの作品には不在なのである。父親が昔、漫画家志望だったとか、引きこもりの叔父が実は立派な大学出だったとか、良嗣の知らずにいた事実が浮上してくる瞬間はある。祖父母がかつて新京と呼ばれていた土地と深い縁があったらしいことも明らかになる。だが良嗣に把握できるのはその程度までで、長春まで出かけていっても目覚ましい発見があるわけではない。そんないささか非力な、歴史の深みに辿りつけない青年を案内役に配することで、角田氏の作品は、決して英雄的なポジションに立ち得ない者たちの現実を浮かび上がらせるのだ。旅の終わりに良嗣は、「歴史に関わっている意識もなくただ時代が与えるものを受け入れていく」姿勢において、祖父母も自分たちと変わりがなかったのではないかという思いに浸される。「大それた希望も絶望もなく」、つまりは物語化しにくい平板さを基調とする人生が、世代から世代へと受けつがれてきたという認識だ。

特別な秘密の啓示によって一族のアイデンティティが強固になるのではなく、流されて生きるほかない者たちのあいだの漠とした共感に希望を見出そうとするところに、この作品の聡明さがある。そう考えてみるならば、いわば二本立てで展開されるストーリーのもう一方の部分、つまり良嗣には読むことのできない、客観的描写による編年体の物語部分が、一種驚くべき達成であることがわかってくる。

なぜならそこで目指されているのは、何ごともあえて記憶に刻まずに「押し流されているだけ」の人々の、事件なき「生活」を定着させるという難事だからだ。「戦前戦中戦後」の世の中を揺るがした出来事の数々は、そこでは意外なほどあっさりと触れられるのみだ。「自分たちの暮らしの外で何が起きているのかほとんど知らず生活に追われている」。そんなありさまこそが実は市井の人間の常態なのである。暮らしの「中」で何が起こっているのかを浮き彫りにする、著者のみごとな手腕が本作を支えている。ツリーハウスにたとえられるような、確固たる根をもたない一族の系譜をゆるぎなく提示するという逆説的企てが、大きな実を結んだのである。

しかも、その客観的物語のほうも、決してすべてを満遍なく説明し尽くすものとして綴られてはいない。むしろ語りのそこここに空隙があり、記述を逃れてゆくものの後ろ姿がある。良嗣の祖父母がそれぞれ「女装と男装」で歌舞伎町を歩いているという不思議な情景の謎や、若くして突如、自殺した叔父の胸のうちは、本当にはわからずじまいだ。過去に注がれるまなざしは、死角をはらまずにはいない。そうした諦念を含むがゆえに、物語に書きとめられた細部が輝き出す。翡翠飯店の厨房に並ぶ中華鍋や寸胴鍋にいたるこまごまとした品々が、片端から絶えず消えてゆく「暮らし」をつなぎとめる貴重なしるしとして、読者の胸に迫ってくるのである。

【単行本】
ツリーハウス / 角田 光代
ツリーハウス
  • 著者:角田 光代
  • 出版社:文藝春秋
  • 装丁:単行本(472ページ)
  • 発売日:2010-10-15
  • ISBN:416328950X
内容紹介:
謎の多い祖父の戸籍、沈黙が隠した家族の過去。すべての家庭の床下には、戦争の記憶が埋まっている。新宿角筈『翡翠飯店』クロニクル。

ALL REVIEWS経由で書籍を購入いただきますと、書評家に書籍購入価格の0.7~5.6%が還元されます。

ツリーハウス / 角田 光代
ツリーハウス
  • 著者:角田 光代
  • 出版社:文藝春秋
  • 装丁:文庫(483ページ)
  • 発売日:2013-04-10
  • ISBN:416767209X
内容紹介:
謎の多い祖父の戸籍――祖母の予期せぬ“帰郷”から隠された過去への旅が始まる。すべての家庭の床下には戦争の記憶が埋まっている。

ALL REVIEWS経由で書籍を購入いただきますと、書評家に書籍購入価格の0.7~5.6%が還元されます。

初出メディア

新潮

新潮 2011年1月号

関連記事
野崎 歓の書評/解説/選評
ページトップへ