書評
『私のなかの彼女』(新潮社)
痛みだらけの世界で、生きて書こうとする女
冒頭に、まず祖母がでてくる。祖母は醜女だった(らしい)と語られる。主人公和歌は十八歳の女子大生として小説に登場するが、のちに就職し、さらにのちには、かつて祖母がそうだったように小説を書き始める。だからここには、職業として物を書くというのがどういうことか、女がそれをするというのがどういうことか、が、時代背景との密接なつながりのなかで考察されている。
丁寧に、丁寧に書かれた小説である。大変恐ろしい小説でもあって、読んでいる途中で背すじがぞっとし、その恐怖は、読み終えても私のどこかに残ってしまった。
何がいちばん恐かったかといえば、人間である。正気と狂気の境い目、善意と悪意の境い目はどこにあるのか、というよりそんなものがあるのかどうか、また、人はどこまで利己的になり得るのか、あるいは、利己的にならずに人が存在することは可能なのか。
十八歳の和歌には恋人がいる。「いや、かわいいよ和歌は」「そんなことないよ、ふつうだよ」「かわいいって」「尾崎や詩織の方がかわいいじゃん」「えー、そう? 尾崎って出目金みたいじゃん」そんな会話を恋人と交わす。甘やかな、ありふれた、ばかばかしくも初々しい会話。主人公の恋人は姿がよく、驚くほどやさしい(もちろん、暴力など絶対にふるわない)。その二人が、ながい時間をかけて、どんなふうに互いに互いを傷つけ、歪め、取り返しがつかないほど変形させてしまうか、が、ここには克明に書きつけられている。恋愛のこの側面を、こうまで残酷かつ執拗に描出した小説を、私は他に知らない。読んだだけで血が凍りそうだった。けれど男と女が(あるいは性別に拘らず二人の人間が)人生を賭して相手に関わるというのは、確かにこういうことなのだ。
それにしても、人間の卑屈さ、かなしさ、身勝手さ、いじましさをあぶりだすとき、角田光代は容赦がない。主人公を追いつめに追いつめる。母と娘の確執、家族というもの、惨事と呼びたいほど歪んでいく恋人との関係、正解を求めてしまう人間の弱さや愚かさ、書く、晒すという行為、世間というもの――。逃げ道をふさぎ、巧妙に、着々と、息苦しく追いつめていく。そして、だからこそ作中にふいに出現するべつな時空間――旧仮名遣いで書かれた祖母の手紙や、和歌の空想上の祖母の人生――が光に似た美しさを持つのだし、主人公が旅をする異国――香港やエジプト――が、その風通しのよさで読者をも圧倒的に力強く解放する。
ディテイルのものがなしさも、本書の読みどころの一つだ。恋人に別れ話をされたとき、主人公の指には「ポテトチップスの海苔が点々とこびりついている」のだし、家族の歴史の秘められた「蔵」を整理している父と母の、「いやーだ、ちょっとこれ、重い! あなたどかして。なんだこれ、何が入ってんだ。埋蔵金の類じゃないか? もう、馬鹿言うのはいいかげんにしてよ、お昼過ぎちゃう」という会話は娘の耳に、「奇妙になまめかしい声」に聞こえる。
そこらじゅうに痛みが転がっている。世界は痛みだらけだ。それでも祖母は生きたし、父も母も生きたのだし、娘もまた生きていかなくてはならない。
最後に和歌が出会う一枚の写真と、混沌が混沌のまま、音もなくそこにすいこまれるような、数秒もしくは数分が見事だった。
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