書評

『毒身温泉』(講談社)

  • 2022/01/11
毒身温泉 / 星野 智幸
毒身温泉
  • 著者:星野 智幸
  • 出版社:講談社
  • 装丁:単行本(184ページ)
  • 発売日:2002-07-17
  • ISBN-10:4062112914
  • ISBN-13:978-4062112918
内容紹介:
中庭には大きな欅とマンゴーの木、ブーゲンビリアとベゴニアの咲き乱れるアパートに、性を超え、年齢を超え、家族の枠を超えて、いま独身者=毒身者たちが集う-。新しい人間像を描く、鮮烈な小説群。

エルドラードへの希望

関東大震災の翌年である大正十三年に設立された財団法人同潤会により、翌十四年から昭和初期にかけ東京市内および近郊に建設された同潤会アパートは、当時の最先端住宅として知られる。設計がモダンリビングの粋を極めていただけでなく、「理想的な集合住宅」を志向する考え方そのものが新しかったからだ。

昭和九年、その集大成として最後に竣工した江戸川アパートは全二百六十戸の約半数以上を、勃興しつつある新しい社会階層としての独身者用住居にあてていた。同潤会アパートの建設と並行するかのように、この時期に江戸川乱歩は探偵小説の傑作を相次いで発表していくが、乱歩が好んで描いたエログロナンセンスは、まさしく独身者という新階層が生み出した時代精神だった。

しかし独身者が「独身貴族」と呼ばれたのは高度成長からバブルの時期まで。デフレと不況の時代に入って彼らもすっかり没落した。いまや家庭にも会社にもどこにも「帰属しない」でいることは、その者が優秀であることも選良であることも証明しない。独身者はむしろ、誰もが共通に抱える不安やよんどころなさを体現してしまう存在なのだ。

そのため、独身者はかえって反社会的な存在と見なされる。このパラドックスが体内に一種の自家中毒を起こし、いまや独身者は「身毒丸」ならぬ「毒身者」と化しつつある。こうしたすぐれた時代認識から、星野智幸の『毒身温泉』という連作小説ははじまる。

第一話「毒身帰属」は、年に数度「自分が破綻して」会社に出勤できなくなってしまう三十六歳の独身中年男「わたし」の物語。「わたし」は破綻状態から脱するため、プリンス・シキシマなる人物が創設した秘密結社「毒身帰属の会」に救いをもとめる。この会の趣旨は、会員専用ホームページ(http://www.ne.jp/asahi/hoshino/tomoyuki/dokushin.html)で次のように宣言されている。

毒身者の存在の根拠は自分自身にある。毒身者は、毒身者自身という単位に帰属している。そういう単体のネットワークとして、「毒身帰属の会」はある。時空を超えて今、つながろう。

さっそく入会を申し込んだ「わたし」はプリンセス・ヨシノなる人物の面接をうけるが、そこでこれまでの生き方を酷評される。「わたし」はヨシノを相手に家族制度やジェンダーをめぐる持論を果敢に展開するがことごとく論破され、入会を拒絶される。二人の教義問答が読みどころの、連作中のこれはいわば理論編。

第二話「毒身温泉」は、会のメンバーの人間模様を通して描かれた一種のユートピア小説で、いうなれば実践編。彼女たち(?)のユートピアは渋谷まで二十分の郊外にある全十二戸の古アパートだ。まるで同潤会アパートのミニチュア版を思わせるこのアパートにも「中庭」がある。「毒身者」たちは個室に籠るよりも、この「中庭」に出てまどろむことを好む。しかしそれは文字通り同床異夢でしかなく、その事実が時制や人称や性別を意識的に混乱させた文体で描かれてゆく。

プリンス・シキシマは会員の積立金でこのアパート全体を買い取る計画を立てているが、メンバーが入居したのはいまだ半数の六戸。それでもシキシマは落胆しない。独身者が非独身者の身近で「一人者の暮らしとは微妙に異なる新しい生活を営んで見せる」には、半数という割合は十分だとうそぶく。

ヨシノのパートナー、テンコはこのアパートでタカオという子供を共同で育てるため、住人がそれぞれ「母」や「叔母」となり、蔦のように広がるこの「一族郎党がメキシコに集結する」という拡大家族を夢見ている。

独身者たちによる実験的な共同生活を、星野智幸はすでに『嫐嬲(なぶりあい)』で描いている。プティ、ミディ、グランデと互いを呼び合う三人がともに暮らすあの部屋を拡大したものが「毒身温泉」の古アパートなのだ。そして『嫐嬲』と同様、このユートピアも長くは続かない。

脱会して結婚した元会員を現会員が監禁し離婚を強制する、という珍妙な事件が発生したことで動揺した会員たちから吊し上げられたシキシマは、こう啖呵を切って会の解散を宣言する。

共同生活なんて、あくまでもオプションの一つだ。一人で生きられないなら独身なんてやめろ。金は返すから、勘違いしてる奴は出てけ。

共同生活の崩壊を察したウエカワとヨシノは、つかのまメキシコへの逃避行を試みる。この逃避行は二人だけでなく、あの古アパートに住まう者たちすべてにとっての「死と再生」の儀式であるかのように描かれる。

第三話「ブラジルの毒身」は、ユートピア崩壊後の外伝的作品で、語り手は日本を離れブラジルで独り身を通すことを選んだ「私」。この語り手が「会」のメンバーなのか、そうでないのかは明らかにされない。作中の台詞も、ブラジル在住の記録作家によるビデオやエッセイのなかからサンプリングし再構成されたものだ。そのためか、前二話にくらべどこか乾いた感傷が全体を覆う。

こうしてこの連作小説は「とりあえず」終わる。では、シキシマたちのユートピアは破れたままなのだろうか?

そうではない、と私は思いたい。冬も暖かい陽光が差し込むためマンゴーがたわわに実り、ブーゲンビリア、ベゴニア、薔薇、ハイビスカスなど南国の植物が咲き乱れるあの「中庭」のむせかえるような植物や果物の匂いは、第一話冒頭の鼻を突くような「肉汁のような寝汗」が放つ「日にちのたった茹で卵のにおい」の変奏曲のように感じられる。「死と再生」は、鼻孔や皮膚に残された記憶のレベルでも起こっている。

この「中庭」を箱庭のようなユートピアイメージに切りつめてしまうのはもったいない。それよりもここを起点に外界を反転させ、「ユートピア(どこにもない場所)」ではなく豪華絢欄に「エルドラード」と呼ぶにふさわしい空間を一気に現出させたくなるのだ。

たとえば、東京の真ん中でいまもなお天然植物が生い茂るあの聖なる空間と、この「中庭」のイメージを重ね合わせたらどうか。もしあそこが、マンゴーが実りハイビスカスやブーゲンビリアが原色の色を散らして咲き乱れる巨大庭園だったら……。

その花の匂いは、地球の反対側の国にいる第三話の「私」までも届くような気がしないだろうか。
毒身温泉 / 星野 智幸
毒身温泉
  • 著者:星野 智幸
  • 出版社:講談社
  • 装丁:単行本(184ページ)
  • 発売日:2002-07-17
  • ISBN-10:4062112914
  • ISBN-13:978-4062112918
内容紹介:
中庭には大きな欅とマンゴーの木、ブーゲンビリアとベゴニアの咲き乱れるアパートに、性を超え、年齢を超え、家族の枠を超えて、いま独身者=毒身者たちが集う-。新しい人間像を描く、鮮烈な小説群。

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