理想の仕事と読書と出会うために
「お仕事×本屋×ヒューマンドラマ×読書論」という、本好きには垂涎の一作である。物語の舞台は、三十代後半の女性ヨンジュが経営する「ヒュナム洞書店」という小さな書店。ある日、突如としてヨンジュは一人で書店を始めるのだが、何やら大きな心の傷を抱えているようで、全くやる気がない。だが、店に集まってくる常連客、講演をしに来てくれる作家、そしてヒュナム洞書店でバリスタのアルバイトをする青年ミンジュン(韓国の書店では喫茶スペースを併設している店舗が多い)、そして数々の本に慰められながら、徐々に活力を取り戻し、本屋経営を軌道に乗せていく。
この小説にはいくつもの魅力がある。まず、仕事小説としての一面。主人公は本屋経営者であり、元は敏腕のビジネスパーソンだった。そのため、仕事の基本が身についており、彼女の仕事観や仕事術がしばしば開陳される。例えば、「いくら好きな仕事でも労働の限界を超えれば結局、「仕方なくやっている仕事」になってしまうことを、ヨンジュはよく知っていた。好きな仕事でもそうなのに、好きではない仕事を大量にこなさねばならないとしたら?仕事が苦痛になるはずだ。働く楽しさを維持できるかどうかは、いかに仕事の量が適切か、にかかっている。」のような一節は、多くの人にとっても切実な問いかけになるはずである。
あるいはこんな場面もある。客からお薦めの本を訊かれるも、適切な答えを返せなかった。その晩、ヨンジュは強く反省するのだが、ただ悔いるだけではなく、その反省点を客観的にかつ徹底的に洗い出し、改善案を練る。しかもそれだけに留まらず、その改善点を更に疑って、様々なイレギュラーを想定し、その対処法を考え尽くすのだ。一連の思索が具体的かつ実践的なの、社会人として学ぶところは多いだろう。
第二の魅力は、本屋を舞台にしている点。日本でも近年、個人オーナーが小さな店舗で経営する一人書店が増えているが、ヒュナム洞書店はまさにそうした形態の店である。したがって、店の品揃えは量や網羅性ではなく、ヨンジュのこだわりが行き届いている。例えば、彼女がお薦め理由を記した付箋が本に挟まれていたり、ベストセラー本を過度に仕入れなかったりといった具合だ。そして、これは日本でもよく行われていることだが、彼女は書店でイベントを積極的に行う。作家を呼んでトークイベントをしたり、創作の講座を行ったり、読書会を行ったり、その数も種類も多彩である。その運営手段が見事で、書店を経営している方は言わずもがなだが、本にまつわる催しを開きたいと考えている人にも有益な情報が詰まっている。
それに関連した第三の魅力は、具体的な読書論や読書話が満載である点。本屋や読書会を舞台にしていると述べたが、その様子も驚くほど丁寧に描かれる。例えば、デイビッド・フレイン『働かない権利』という本をめぐる読書会が開かれるのだが、一章丸々費やして、その読書会の様子が描かれる。九人の老若男女が集まり、それぞれの立場や考えから、課題本について意見を交わす。年齢やジェンダー差はもちろん、宗教観や経済事情といったものをたくみにばらつかせているため、特定の答えに誘導するようなことはなく、我々も参加者の一員として議論に参加することを自然と促してくれる。
最後に、最も大きな魅力として、本と人を通して社会といかに関係を結ぶかという問いに対する答えがさりげなく提示されている。登場人物の多くは、配偶者との不和、進路の悩み、仕事での挫折など、心に何かしらの傷を抱えている。だが、彼らは本を読み、その言葉に癒され、本を通して人と交わり、慰めを得る。その際、彼らが出会う作品や一節が具体的に示されるのが大きな特徴だ。彼らが読んだのはなんという本で、その本のどこに、いかに感動し、そしてどのように立ち直ったかが深く深く描かれる。読者にとっても本との出会いの場になることは請け合いだ。
これほど本の魅力を礼賛されると、綺麗事すぎるという指摘はあるかもしれない。だが、これくらい本の可能性を信じたっていいじゃないか、本って時に人生を変えるくらいのパワーを秘めているんだぞと、素直に感動してしまった。本好きなら必ず本に対する懐かしさや憧れ、期待を感じることができる。しかもそれが社会や仕事に活かせるという最高のおまけつきだ。ぜひヒュナム洞書店の扉を叩いてほしい。