書評

『浮遊』(河出書房新社)

  • 2024/07/21
浮遊 / 遠野 遥
浮遊
  • 著者:遠野 遥
  • 出版社:河出書房新社
  • 装丁:単行本(144ページ)
  • 発売日:2023-01-18
  • ISBN-10:4309030890
  • ISBN-13:978-4309030890
内容紹介:
高校生のふうかは、会社経営の男の家で柔らかいソファに座り、男の元恋人を象ったマネキンの下、夜毎ホラーゲームで悪霊たちから逃げ続け――。芥川賞受賞作『破局』を超える衝撃。

生きるために流される

ライオンがシマウマの群れを追う。何本もの脚が乱れ、あたりには砂塵が立ち込めている。やがて動物たちの動きが穏やかになって視界が開けると、一頭のシマウマがライオンに捕食されている。ライオンは性愛の対象にするかのように貪り、やがてシマウマは諦めたのか、痙攣のように時おり身体を震わす以外は動かなくなる。その時ふとカメラが少し離れた草むらに転ずると、先ほどまで逃げまどっていた他のシマウマたちが、悠々と草を食んでいる。そのコントラストを強調したところで、映像がスタジオに戻った。解説役の動物学者が、彼らには過去や未来という感覚がないから、さきほどまでの恐怖を忘れているし、次は自分たちが襲われるかもしれないという不安もないと述べていた。動物研究においてその説が妥当なのかは分からないが、遠野遥『浮遊』を読み終えたとき、そんな動物番組の一幕を思い起こした。

主人公は高校一年生の女性「ふうか」。滑り止めで受かった高校に通い、放課後には、友達と遊ばず、買い物やゲームをするような地味な生活を送っている。唯一変わっているのは、父親ほどの年齢で、アプリ開発会社のCEOを務めている「碧くん」と同棲していることだ。ただし、時々実家に帰っており、父親もたまには帰っておいでなどとのんきに連絡している様子(どこまで事情を知っているかは不明)から、どうやら家出などではないらしい。そんなある日、家に帰ると、注文していた「浮遊」というタイトルのホラーゲームが届いていた。生前の記憶を失った死者の少女を操作し、襲い掛かる他の死者たち(悪霊)から逃げながら、彼女の生前の記憶を探すゲームだ。さっそく家の大きなテレビで浮遊をプレイするようになる。そんな彼女を、百七十センチほどの大きなマネキンがじっと見つめている。碧くんが数ヶ月前まで同棲していた紗季というアーティストの作品で、自身の体の寸法をもとに作られたもの。紗季の私物はほとんど片づけたが、マネキンは作品だからという理由で碧くんがそのままにしているのだ。

物語は、マネキンが鎮座する部屋で、浮遊をプレイしたり、碧くんとおしゃべりをしたり、碧くんや料理代行サービスの人が作る食事を食べたり、そして、小学生の頃にできた傷跡が気になって病院に行ったり、ふと実家に帰ったりする様子が入り乱れながら進行していく。それらを統御するのは、遠野らしい過剰にロジカルで多弁な文体だ。底流には不合理という溶岩が煮えたぎっているのにもかかわらず、その表面を冷めきった思考が流れることで、狂気とユーモアが蒸気のように立ち込め、読む者に好奇心と不安を抱かせるのである。

ここでタイトルにもなっている浮遊というゲームに話を移したい。作品の描写から考えるに、浮遊はかなりの「クソゲー」のようだ。ゲームとは基本的に、プレイヤーが主人公との一体感を覚え、作品に没頭することを主眼とする。そのため、次になすべきことを直感的に分からせたり、会話よりもプレイヤーの行動を多くしたり、新しい情報を出すタイミングを工夫する。ところが、浮遊はゲームの目的がなかなか明示されず、物語性にもアクション性にも乏しい。初っ端から何をすべきかの情報はないし、主人公の背景や物語の設定がきちんと説明されることもない。そして主人公ができることと言えば、基本的にただ走って逃げるだけで、せいぜいYUKIと縫われた不思議なマフラーによって一時期的に悪霊から身を隠せる程度である。実際、ふうかはゲームに対する感想らしい感想を述べることはほとんどない。それどころか、主人公の気持ちがよく分からず、「私はこのゲームから自分が疎外されている気分になり、どこか鼻白むような思い」を抱くほどだ。

しかし、それでも彼女は毎日のように浮遊をプレイしている。なぜだろうか。それは、浮遊が得意としているのが、プレイヤーに深いストーリー性やメッセージなどを与えることではなく、刹那的な刺激を連続して供給することだからだ。次々と悪霊が現れたり、様々な場面転換がなされるのがその好例である。だから、ふうかが「ゲームをしていると不安は不思議と薄れた。おそらく、作り物の恐怖で頭の中を満たすと、現実の不安をいくらか忘れることができる」と述べているのは象徴的だ。

ゲームデザイナーのジェイン・マクゴニガルは、ゲームエンジニアはプレイヤーを没頭させるために、脳内報酬系などを刺激する方法を研究していると述べていたが、今やゲームに限らず、スマホを中心に、人々を刺激して反射神経的な行動へと駆り立てる装置が世界中に張り巡らされている。その結果、我々は次々と襲い来る刺激に対応するだけで精一杯になった。浮遊もふうかも、そうした刺激に溢れる時代を体現していると言える。だから、ふうかの興味や思考は持続しない。浮遊に熱中したかと思えば、食事のためにすぐプレイを中断する。父親から災害用品の話を聞けばすぐ買って、すぐに忘れる。傷跡が気になれば深刻なほど気にして病院へ走るが、少し経てば忘れる。碧くんにトラブルが起きれば心配はするが、次の瞬間には夜景を楽しむ。

だが、それはただ責められるべきではないことも強調しておきたい。彼女にはネグレクトと思しき経験があり、クラスメイトともうまく馴染めていなかったようだ。しかも、浮遊の主人公に誰も味方がいないように、ふうかの周りにも真剣に向き合おうとしない父親や碧くんしかいない。そんな彼女が持っている「勇気(YUKI)」は、自らの主体性を殺し、自分を幽霊やマネキンのようにすることだけだったのかもしれない。つまり、自らを不安定にふわふわとさせ、周囲に流される「浮遊」こそが、彼女自身の防衛だったのである。『浮遊』の奇妙なまでの流動的な文体は、ふうかの切実な不安定さそのもののように思えてならない。
浮遊 / 遠野 遥
浮遊
  • 著者:遠野 遥
  • 出版社:河出書房新社
  • 装丁:単行本(144ページ)
  • 発売日:2023-01-18
  • ISBN-10:4309030890
  • ISBN-13:978-4309030890
内容紹介:
高校生のふうかは、会社経営の男の家で柔らかいソファに座り、男の元恋人を象ったマネキンの下、夜毎ホラーゲームで悪霊たちから逃げ続け――。芥川賞受賞作『破局』を超える衝撃。

ALL REVIEWS経由で書籍を購入いただきますと、書評家に書籍購入価格の0.7~5.6%が還元されます。

初出メディア

文學界

文學界 2023年5月号

  • 週に1度お届けする書評ダイジェスト!
  • 「新しい書評のあり方」を探すALL REVIEWSのファンクラブ
関連記事
渡辺 祐真の書評/解説/選評
ページトップへ