書評
『【第163回 芥川賞受賞作】破局』(河出書房新社)
自分をも突き放す虚無の奥には
他人がよろしくない出来事を起こすと、あんなことをする人だとは思わなかったなどと言う人がいるが、他人がどんな人かを把握しているという認識に驚く。人格なるものは常に不安定で、瞬間ごとに変化していくはず。つまり、自分でさえ、自分のことを把握することなんてできやしない。第一六三回芥川賞を受賞した本書は、母校の高校ラグビー部でコーチをしつつ、公務員試験の準備に励む大学四年生・陽介の一人語りで進む。政治家を目指す彼女の麻衣子と、お笑いライブで出会った灯(あかり)との間で気持ちが揺れるが、その波動は曖昧で捉えにくい。
吐き出した言葉を、次の瞬間に疑い始めるような思索が反復するが、それが物語の凹凸を作り出すことはなく、むしろ平坦に続く。
「私はもともと、セックスをするのが好きだ。なぜなら、セックスをすると気持ちがいいからだ」
性欲だけでなく、欲に動かされる自分を客観視し、今の時代ってこんな感じでしょ、と言わんばかりに社会の規範を自らにぶつけ、言動を具体的に制御する。正しい人間と査定されることを望んでいるわけではないが、その手の査定に率先して理解を示していく。
「私は、チーズバーガーを食べるはずだった。ところが、急に魚のバーガーが私の心を捉えた」
この一文だけを引くと、あたかも英語の教科書の例文を訳したかのようだが、こういったスムーズな思考の連結に、細かなヒビが入っている。砂利のような思考の粒が挟まり咀嚼を拒むが、いつしか、その砂利ごと味わえるようになる。
陽介は、やたらと肉を食らう。突き放すように食う。他人に対しても、そして自分に対してもそんな態度だ。引き寄せては放り出す。価値を固定しようとする動きから、逃れようとする。どことなく虚無感に貫かれており、その虚無の中で何かしらが蠢(うごめ)いていることはわかるのだが、その正体をいつまでも発見させない。
朝日新聞 2020年8月1日
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