『古事記』といえば、八世紀初め頃に成立したと言われる日本の神話・歴史書。イザナキとイザナミらによる国の始まりから、神々や歴代天皇の事績が綴られており、「八岐大蛇」、「因幡の白兎」など有名なエピソードでも知られている。重要な書物であることは言うまでもないが、神々の不可解な行動、現代ではよく分からない言葉、神や島の名前のひたすらな列挙など、決して読みやすい作品ではない。かく言う私も、大学時代にうんうんと唸りながら読み進めたが、楽しいというよりはあくまで勉強だった。
そんな『古事記』の新訳が刊行された。訳者は作家でミュージシャンの町田康。数々の傑作小説や詩はもちろん、「宇治拾遺物語」や『義経記』のロックで笑える現代語訳も記憶に新しい。そんな町田が『古事記』をどう訳すのかと、ワクワクして早速読んでみた。すると、冒頭に書いたように一瞬で読み終えてしまったのだ。百聞は一見にしかず、まずは訳文をご覧いただこう。スサノオという神を描くシーン。
なにしろ泣くだけで山の木が全部枯れ、海が干上がるほどのパワーの持ち主がもの凄いスピードで天に昇っていくのだから、やれコップが落ちて割れた、茶瓶がこけたみたいなことで済む訳がなく、震度千の地震が揺すぶったみたいな感じになって、山も川もまるでアホがヘドバンしているみたいに震動、国土全体が動揺してムチャクチャになった。
以上の箇所をオーソドックスに訳すと「(スサノオが)高天原に参り上られた時に、山や川はすべて揺れ動き、国土は皆震えた。」となる。(訳は、中村啓信『新版 古事記』角川ソフィア文庫、2009年)この二つを見比べると、町田訳にはかなり大胆な加筆が認められるが、その加筆のおかげで、いかにスサノオという神が凄まじいかがよく分かり、さらに笑える。正当な現代語訳が悪いわけではない。ただ、私たちが『古事記』をはじめとした古い作品を読むときに難渋する原因の何割かはここにある。つまり、描かれている内容は鮮烈なことなのに、言葉が簡素とか、なんか神話だからとかいう理由でつい読み飛ばしてしまうのだ。例えば『古事記』では、男女(男の神と女の神、天皇と町娘など)が出会うと、出会ったそばからあっさりと結婚してしまい、本文でもさも当たり前のこととして進行するのだが、普通に考えたらおかしい。となると、『古事記』で求められるのは、神々や天皇の常識に対して、当たり前のこととして流されない感度だ。そのために町田訳は「ツッコミ」を入れる。例えば、先の結婚の場合、「人間からするとまったくもってなんちゅうことをさらすのかと思うが神なので仕方ない。」という具合。神は違うという大らかな理解力を示すが、まずは変だよねという違和感は表明するのだ。小さな違和感を見逃さない高い感度がある。
感度の高さは、『古事記』のテーマでもあると思う。神々は揉め事があると、武力に訴えることが多いが、その一方で感情のやり取りでスムーズに事を運ぶことも少なくない。有名な「天岩戸隠れ」では、みんなでバカ騒ぎをする笑い声で、隠れてしまった太陽の神アマテラスを誘き出すが、よく考えれば、緊急事態で引きこもっているのに、笑い声で誘い出せると思う方も、実際に誘われる方も実に鋭敏な感性を持っていると言える。だが、神々も、そして『古事記』の物語を読んだり聞いたりしている人々も、新鮮に驚き、そしてツッコミを入れて、作品に深くのめり込んでいたのではないだろうか。町田訳は、鋭い感性でツッコミを入れ倒すことで、『古事記』を恭しいものという呪縛から解放し、生きた物語としてカヴァーしているのだ。