全身で聞く<むがすむがす>の真実
山深い土地を、あるいは海辺の小村を訪ねて、古老たちに、あなたの知っている昔話を聞かせて下さいと頼んでみる。研究をしているわけではない。ただ聞きたいという、やむにやまれぬ衝動に駆られてはじめたことだ。本書は一九六九年から半世紀近くにわたって、宮城県内で著者が行った聞き取りの、ほんの一部をまとめたものである。昔話を聞いてまわることを「採集」とも「採話」とも呼ばず、あえて「採訪」と表現するのは、「≪聞く≫ということは、全身で語ってくださる方のもとへ≪訪(おとな)う≫こと」だとの認識に立っているからだ。めぼしい話をただ並べるのではなく、≪聞く≫人としての自分がどのように踏み迷い、どのように成長してきたのかを示さなければ、語り手に対して礼を失する。聞く人と聞かれる人の関係しだいで、立ちあがる言葉の密度と温度は変わってくるのだ。
ただし、「採訪」することと、聞いた話を咀嚼して他人に伝える作業はべつものである。聞くための覚悟に加えて、第三者に書いて伝える重さも生じてくる。心を揺さぶられる出会いが記されていても、そこに甘えはない。あたりはやわらかいけれど、文章は中途半端な気持ちでは巻き取ることも切ることもできない丈夫な糸のようで、ところどころスチール弦のような硬い音を返してくる。
その硬さを支えているのは、聞き取りの現場で得た「血の吹き上がる現実に支えられて、そこに物語は呼吸して生き続けてきたのだという実感」である。各地に残る昔話や民話が『古事記』や『日本霊異記』などの記載文芸に源を持つといった前提で話の寓意を解釈しない。信用できるのは、目の前にいる語り手の存在と、彼らが飲み込んできた厳しい現実のなかで体験した「ほんとうのこと」だけである。荒唐無稽にさえ思える<むがすむがす>の話には、じつは重い真実が込められていて、信頼できる聞き手でなければ、へたに語り手もそれを明かさない。話せば嘘だと言われ、正気ではないと難じられる。
無条件に内容を信じ、真摯に耳を傾ける聞き手がいなかったがために封印されてしまった話がいくつもある。現実から民話が生成するとしか思えない瞬間に著者は立ち会い、そのたびに呆然として謙虚になる。語り手のひとり、一八八二年生まれの女性の逸話が印象的だ。字の読めない彼女は、赤穂義士を描いた色刷りの和綴(わと)じ絵本を大事にしていたのだが、まだ三度しか顔を合わせていない著者に、それを形見として贈る。
「ほかに誰もやる人がいない。あんた、おれの<むがすむがす>を一生懸命に聞いてくれたのがうれしい。この本を見て、時々、おれのことを思い出してくれ」
昔話の背後には、それを話してくれた身近な死者がいる。死者への想いが語り手の声を支え、それを伝えてくれる聞き手の言葉を強固にする。自由に人を訪ねて心ゆくまで話すことも、「一生懸命に」聞くことも不可能になっているいまだからこそ、私たちはあらたな<むがすむがす>に育つ種を確保しておかなければならない。自分を守ることだけを考えず、弱者へのまなざしを失わない語りの火を消してはならない。そんなふうに感じさせる本書は、すでに一篇の民話の域に達している。