人が何かの決断を下すとき、己をどのように納得させるのだろうか。
迷う要因がなければ、決断に時間も言葉も必要ない。だが理屈や本能、倫理観が異を唱えている場合、己の中に存在するもう一人の自分を納得させなければならない。そんなとき、時に理知的に時に強引に己を納得させようとし、その結果、成功あるいは失敗する。もちろん必ずしもその決断が正しい保証はなく、そのことが更なる破綻を招くこともある。
高橋弘希の小説は、そうした己の中でのディスカッションがいつも緻密で刺激的だ。とりわけ「叩く」は、現代版「羅生門」と呼ぶべきスリリングな自己対話劇に仕上がっている。
まずは、「叩く」が収録されている、単行本『叩く』全体について紹介したい。同書には五篇の短編小説が収録されている。
表題作「叩く」は、強盗に押し入った青年が、目撃者の老婆を殺すか否かを逡巡しつづけることが主題。主人公の佐藤は、うだつが上がらず、職を転々とし、遂にはギャンブルで首が回らなくなった29歳の期間工。彼は闇サイトで見つけた求人で、共犯の塚田と共に、ある邸宅に強盗に入ることとなる。だが、塚田に裏切られてしまい、住民の老婆と共に取り残され、金はほとんど手に入らなかった。佐藤は口封じのために老婆を殺して逃げるべきか、そのまま逃げるべきかを悩みながら、これまでの不運を思い返す。
続く「アジサイ」の主人公は、三十代の会社員の田村。自らを平均以上の人間と自負し、仕事もそれなりにできるようだが、ある日家に帰ると「しばらく実家に帰らせていただきます」という置き手紙を残して、妻がいなくなっていた。自分のどこに落ち度があったのか考えを巡らせるが、その核心については、気づいてか気づかないでかたどり着くことができず、表層に留まってしまう。
「風力発電所」は、青森県にある風力発電と都会への電気供給をめぐる物語だ。主人公は作家で、出身地でもある青森県の村を訪れていた。その村は大きな風車による風力発電で知られているが、その電気は大手電力会社に売られており、一帯は寂れている。都会と地方の不均衡、風力発電による環境破壊という問題に対して、出身者なりに関心を持って調べる。
「埋立地」も、小学生たちの冒険譚を通して、環境問題を描く。主人公の浩一が小学三年生の頃、自分たちが住む郊外の小さな町が、都市開発という名目で埋め立てられることになった。だが数年経っても工事は進んでいるようには見えず、ある日、友人を誘って埋立現場に侵入する。最後には、まるでその時に感じた違和感に「蓋」をするように、約二十年後の浩一が描かれており、時の流れの中で固まった諦めが印象的だ。
「海がふくれて」は、東日本大震災の傷が癒えない東北の高校生を描く。高校二年の琴子の父親は震災の津波で行方不明になっており、彼女は今でも父がどこかで生きていることを信じている。幼馴染で恋人の颯太との関係を通して、彼女は自らと、海と、そして父親との距離感を確かめていく。
冒頭で述べた通り、高橋の小説は、自己を納得させようとする過程を描くことに長けている。例えば、デビュー作『指の骨』は太平洋戦争中の南方戦線を舞台にしているが、亡くなった戦友の肉を食うか否か、悩み抜くシーンは本書のクライマックスを成している。特に、表題の通り、指の骨は内地に持ち帰る大切な形見であるため、その指を食う意味は深い。
第39回野間文芸新人賞に輝いた『日曜日の人々』は、心にダメージを負った人々が集い、交流を重ねることで回復を目指す、「レム」と呼ばれる自助グループを描いている。主人公はレムに所属していた人々の日記や作文を通して、彼らが自傷や自死に至った経緯を追いかけていく。その中の一人が「人間は感情を犬のように飼い慣らすことはできない。飽和した感情は暴力を伴って内外へ向けられる。(中略)過食も拒食も自傷の一種だ。症状ではなく言葉で伝える、それが朝の会であったように思う。」と綴っているように、自らを言葉で納得させられない場合、それは大きな暴力となって表出してしまう。だが、ある人物は「僕は拒食も過食も言葉だと思っているよ」と言い遺す通り、言葉や行為を尽くして自死を選ぶように、説得と衝動が手を携えて破綻の螺旋に沈む場合もある。
第159回芥川龍之介賞を受賞した「送り火」は、少年たちの残酷な暴力を描く。主人公の歩は父親の仕事の関係で、青森県の小さな中学校に転校する。稔と呼ばれる少年が明らかないじめを受けているが、歩は稔といじめっ子たちが仲良しである材料を必死に積み上げ、積極的に傍観者であろうとする。
『音楽が鳴りやんだら』は、著者初の長編小説。音楽の才能に恵まれたバンドマン・葵は、幼馴染たちとバンド活動をしていたが、メジャーデビューやバンドの躍進のために、メンバーを入れ替えることを迫られる。「感覚的に音楽を捉える」のに対して、メンバーにまつわる決断に対しては慎重に言葉を連ねることで自らを納得させるのが印象的だ。
「叩く」は、老婆を殺すまでに徹底した自己対話がなされる。ちょうど、芥川龍之介「羅生門」において、下人が老婆の着物を剥ぎ取るまでに重ねる逡巡に近しいものがある。ちょうど佐藤も下人も社会的な弱者であり、対象は悪であり(死者を冒涜する老婆。少なくとも佐藤の中では「強欲ババア」)、自分が生きるために罪を犯すかを逡巡する。ただし、「羅生門」との大きな違いは、下人は自らの内なるディスカッションというより、己の勇気の問題である。「下人は、手段を選ばないという事を肯定しながらも、この「すれば」のかたをつけるために、当然、その後に来る可き「盗人になるよりほかに仕方がない」と云う事を、積極的に肯定するだけの、勇気が出ずにいたのである。」
だが「叩く」では、常に自らの一部を他者として扱っている。「一方で、サイドミラーに映る自分の顔は、犯罪者の顔をしていなかった。」と自らを評し、何度も自分に対して「思い込ませる」という表現を用いる。そしてまるで内なる二人の自己かのように小鳥が二羽現れ、諍いを始める。
昨今、闇バイトや無敵の人と呼ばれる言葉が横行し、まるで考えなしの衝動的な犯行のように喧伝されることもがあるが、本書を読んでいると、普通の人間が丹念かつ慎重に己を奮い立たせるような気がしてならないのだ。