書評

『鏡の中を数える』(タイフーン・ブックス・ジャパン)

  • 2017/10/06
鏡の中を数える / プラープダー・ユン
鏡の中を数える
  • 著者:プラープダー・ユン
  • 出版社:タイフーン・ブックス・ジャパン
  • 装丁:単行本(ソフトカバー)(244ページ)
  • ISBN:4990362101
内容紹介:
タイの若手人気作家プラープダー・ユンによる、待望の和訳短編集。一部タイファンの間では、かなり待ち焦がれられていた、ウワサの本です。2002年、29歳にしてタイの最も権威ある文学賞である「東南アジア文学賞」を受賞した『存在のあり得た可能性』を含め、これまでタイで発表されてきた人気短編集… もっと読む
タイの若手人気作家プラープダー・ユンによる、待望の和訳短編集。一部タイファンの間では、かなり待ち焦がれられていた、ウワサの本です。2002年、29歳にしてタイの最も権威ある文学賞である「東南アジア文学賞」を受賞した『存在のあり得た可能性』を含め、これまでタイで発表されてきた人気短編集などの中から、日本でも受け容れやすい12編が選ばれ、東京外語大の宇戸清治教授の手により翻訳されました。短編の多くには実験的アイディアとタイ語の言葉遊びが散りばめられつつ、日本の日常にもそのままあてはまるほどリアルな現代へのクールな視点もみずみずしく光り、読む者に不思議な読後観をもたらします。著名な父を持つがゆえに「親の七光り」と向き合わざるを得ない複雑な自我を描いた「バーラミー」や、手から紙片が滑り落ちてから、屈んでそれを拾うまでの間の長大な追憶「存在のあり得た可能性」など、その新鮮な構想力と、散弾銃のように続く濃密でピュアな言葉の連射は「文芸アート」とも言えるもの。東南アジアの文学の季節が送り出したニュータイプ文学として愉しんでいただけるでしょう。
蓮池にすっぽりと全身を沈め、水面から顔を覗かせて、周囲を恐るおそる見回している男がいる。ここから飛び出していこうか。それともまだしばらく水のなかに身を浸していようか。日本映画を観ている人だったら、ただちに黒澤明の処女作『姿三四郎』の、あの有名な場面を思い出すことだろう。柔道の先生から他流試合を禁じられた三四郎は、怒りのあまりに蓮池に飛び込んで一晩を過ごす。彼は夜明け方、蓮の花が美しく開花するさまを眼前に見て、自分の誤りに気付き、池から出て行って師に許しを請うのだ。

プラープダー・ユンのこの最初の短編集を読んで、はからずもこの光景を思い出した。彼の「肉の眼」という短編のなかで、公園にいる狂人がこのようにいう。

あなたが水面下の蓮であるとき、周囲にはやはり多くの悪に染まった蓮が群がっている。他の多くの蓮華は水面で芳香を空中に放ち、薫りに誘われて集まったあらゆる虫たちにたかられ花弁を散らす。そんなもののどこに喜びがあるだろう。それより水面下にいる方がはるかに安全だ

ここに語られているのは、伝統的な仏教的救済観をめぐる懐疑である。水上に躍り出ることが、はたして幸福なことだろうか。むしろ汚れた水の下に留まって、絡みあう醜い根どうしの争いに耽っていたほうが、余計な気遣いや苦しみを体験しないだけ楽なのではないだろうか。主人公はこうした考えをもつ狂人に深く魅惑されながらも、なんとか水中・水上という二分法から抜け出せないだろうかと、達観のあり方を探ろうとする。公園の狂人とは、彼の忌まわしくも真理を語る分身なのだ。

プラープダー・ユンは今日のタイでもっとも注目されている、若手小説家のひとりである。ヴェネツィア映画祭で数年前に受賞した『地球で最後のふたり』の脚本家として、その名を知っている人も多いだろう。富裕な新聞王の御曹司として生まれ、中学をバンコクで終えるとただちに渡米。15年の海外生活の後に帰国して、文筆活動を開始した。彼はカズオ・イシグロやソムトウ・スチャリトクルのように習い憶えた英語で書くことをせず、母国語で小説家として立つ道を選んだ。帰還した者の利点とは、故郷を距離を持って眺めることができることだ。だがそれは同時に、永井荷風のように「帰朝者の悲しみ」を誘うとともに、現実を前にした非現実感をもたらすことにもなる。この短編集のいたるところに漂っている奇妙な浮遊感、自分がここにいるはずなのに、実は本当は別の場所にいて別の存在であるといった雰囲気は、おそらくそれに由来している。

作者はバンコクのどこにいても、「存在のあり得た可能性」を生きているのである。

【この書評が収録されている書籍】
人間を守る読書  / 四方田 犬彦
人間を守る読書
  • 著者:四方田 犬彦
  • 出版社:文藝春秋
  • 装丁:新書(321ページ)
  • ISBN:4166605925

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鏡の中を数える / プラープダー・ユン
鏡の中を数える
  • 著者:プラープダー・ユン
  • 出版社:タイフーン・ブックス・ジャパン
  • 装丁:単行本(ソフトカバー)(244ページ)
  • ISBN:4990362101
内容紹介:
タイの若手人気作家プラープダー・ユンによる、待望の和訳短編集。一部タイファンの間では、かなり待ち焦がれられていた、ウワサの本です。2002年、29歳にしてタイの最も権威ある文学賞である「東南アジア文学賞」を受賞した『存在のあり得た可能性』を含め、これまでタイで発表されてきた人気短編集… もっと読む
タイの若手人気作家プラープダー・ユンによる、待望の和訳短編集。一部タイファンの間では、かなり待ち焦がれられていた、ウワサの本です。2002年、29歳にしてタイの最も権威ある文学賞である「東南アジア文学賞」を受賞した『存在のあり得た可能性』を含め、これまでタイで発表されてきた人気短編集などの中から、日本でも受け容れやすい12編が選ばれ、東京外語大の宇戸清治教授の手により翻訳されました。短編の多くには実験的アイディアとタイ語の言葉遊びが散りばめられつつ、日本の日常にもそのままあてはまるほどリアルな現代へのクールな視点もみずみずしく光り、読む者に不思議な読後観をもたらします。著名な父を持つがゆえに「親の七光り」と向き合わざるを得ない複雑な自我を描いた「バーラミー」や、手から紙片が滑り落ちてから、屈んでそれを拾うまでの間の長大な追憶「存在のあり得た可能性」など、その新鮮な構想力と、散弾銃のように続く濃密でピュアな言葉の連射は「文芸アート」とも言えるもの。東南アジアの文学の季節が送り出したニュータイプ文学として愉しんでいただけるでしょう。

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Invitation(終刊)

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