書評
『鏡の中を数える』(タイフーン・ブックス・ジャパン)
蓮池にすっぽりと全身を沈め、水面から顔を覗かせて、周囲を恐るおそる見回している男がいる。ここから飛び出していこうか。それともまだしばらく水のなかに身を浸していようか。日本映画を観ている人だったら、ただちに黒澤明の処女作『姿三四郎』の、あの有名な場面を思い出すことだろう。柔道の先生から他流試合を禁じられた三四郎は、怒りのあまりに蓮池に飛び込んで一晩を過ごす。彼は夜明け方、蓮の花が美しく開花するさまを眼前に見て、自分の誤りに気付き、池から出て行って師に許しを請うのだ。
プラープダー・ユンのこの最初の短編集を読んで、はからずもこの光景を思い出した。彼の「肉の眼」という短編のなかで、公園にいる狂人がこのようにいう。
ここに語られているのは、伝統的な仏教的救済観をめぐる懐疑である。水上に躍り出ることが、はたして幸福なことだろうか。むしろ汚れた水の下に留まって、絡みあう醜い根どうしの争いに耽っていたほうが、余計な気遣いや苦しみを体験しないだけ楽なのではないだろうか。主人公はこうした考えをもつ狂人に深く魅惑されながらも、なんとか水中・水上という二分法から抜け出せないだろうかと、達観のあり方を探ろうとする。公園の狂人とは、彼の忌まわしくも真理を語る分身なのだ。
プラープダー・ユンは今日のタイでもっとも注目されている、若手小説家のひとりである。ヴェネツィア映画祭で数年前に受賞した『地球で最後のふたり』の脚本家として、その名を知っている人も多いだろう。富裕な新聞王の御曹司として生まれ、中学をバンコクで終えるとただちに渡米。15年の海外生活の後に帰国して、文筆活動を開始した。彼はカズオ・イシグロやソムトウ・スチャリトクルのように習い憶えた英語で書くことをせず、母国語で小説家として立つ道を選んだ。帰還した者の利点とは、故郷を距離を持って眺めることができることだ。だがそれは同時に、永井荷風のように「帰朝者の悲しみ」を誘うとともに、現実を前にした非現実感をもたらすことにもなる。この短編集のいたるところに漂っている奇妙な浮遊感、自分がここにいるはずなのに、実は本当は別の場所にいて別の存在であるといった雰囲気は、おそらくそれに由来している。
作者はバンコクのどこにいても、「存在のあり得た可能性」を生きているのである。
【この書評が収録されている書籍】
プラープダー・ユンのこの最初の短編集を読んで、はからずもこの光景を思い出した。彼の「肉の眼」という短編のなかで、公園にいる狂人がこのようにいう。
あなたが水面下の蓮であるとき、周囲にはやはり多くの悪に染まった蓮が群がっている。他の多くの蓮華は水面で芳香を空中に放ち、薫りに誘われて集まったあらゆる虫たちにたかられ花弁を散らす。そんなもののどこに喜びがあるだろう。それより水面下にいる方がはるかに安全だ。
ここに語られているのは、伝統的な仏教的救済観をめぐる懐疑である。水上に躍り出ることが、はたして幸福なことだろうか。むしろ汚れた水の下に留まって、絡みあう醜い根どうしの争いに耽っていたほうが、余計な気遣いや苦しみを体験しないだけ楽なのではないだろうか。主人公はこうした考えをもつ狂人に深く魅惑されながらも、なんとか水中・水上という二分法から抜け出せないだろうかと、達観のあり方を探ろうとする。公園の狂人とは、彼の忌まわしくも真理を語る分身なのだ。
プラープダー・ユンは今日のタイでもっとも注目されている、若手小説家のひとりである。ヴェネツィア映画祭で数年前に受賞した『地球で最後のふたり』の脚本家として、その名を知っている人も多いだろう。富裕な新聞王の御曹司として生まれ、中学をバンコクで終えるとただちに渡米。15年の海外生活の後に帰国して、文筆活動を開始した。彼はカズオ・イシグロやソムトウ・スチャリトクルのように習い憶えた英語で書くことをせず、母国語で小説家として立つ道を選んだ。帰還した者の利点とは、故郷を距離を持って眺めることができることだ。だがそれは同時に、永井荷風のように「帰朝者の悲しみ」を誘うとともに、現実を前にした非現実感をもたらすことにもなる。この短編集のいたるところに漂っている奇妙な浮遊感、自分がここにいるはずなのに、実は本当は別の場所にいて別の存在であるといった雰囲気は、おそらくそれに由来している。
作者はバンコクのどこにいても、「存在のあり得た可能性」を生きているのである。
【この書評が収録されている書籍】
初出メディア

Invitation(終刊) 2007年8+9月
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