書評

『ソビエト・ミルク: ラトヴィア母娘の記憶』(新評論)

  • 2019/11/11
ソビエト・ミルク: ラトヴィア母娘の記憶 / ノラ・イクステナ
ソビエト・ミルク: ラトヴィア母娘の記憶
  • 著者:ノラ・イクステナ
  • 翻訳:黒沢 歩
  • 出版社:新評論
  • 装丁:単行本(266ページ)
  • 発売日:2019-09-13
  • ISBN-10:4794811330
  • ISBN-13:978-4794811332
内容紹介:
緊張緩和から共産圏崩壊にかけての時代を、ひと組の母と娘の物語を通じて圧倒的迫力で描き出す、ラトヴィア文学の傑作!

隷属と自由の間で揺れる若い魂の記録

現代ラトヴィアの女性作家による話題作である。人口二百万足らずのバルト地方の小国で五万部売れるベストセラーになっただけでなく、既に英語をはじめとして世界の多くの言語に翻訳されている。物語は、一九六九年生まれの娘と、一九四四年生まれの母の複雑な関係を軸に、二〇世紀後半のラトヴィアという国の苦難の歴史を背景に展開する。孫娘を愛し守る祖母も蔭(かげ)で重要な役割を果たしているから、女たち三代の物語と言うべきだろう。なお小説を通して、彼女たちが名前で呼ばれることはない。

「ソビエト・ミルク」とは不思議なタイトルではないか。ラトヴィア語の原題は、単に「母乳」だという。母は娘を生んだとき、自分の母乳が「不安と崩壊の苦い乳」だという妄想にとらわれ、家を突然出て育児放棄したため、娘は母乳の味を知らないまま育つことになったのだ。母は優秀な医師だったが、ラトヴィアからレニングラードに研修に行ったとき、大変な事件を起こす。子供ができなくて悩んでいたロシア人女性に人工授精の施術を行い、妊娠を成功させるのだが、そのロシア人女性は子供ができるという喜びも束の間、泥酔した夫に顔が変わるほど激しく殴られてしまう。それを知って憤慨に駆られたのか、ラトヴィア人医師は男を呼び出して鈍器で叩(たた)きのめし、大怪我(おおけが)を負わせたのだ。

この事件の結果、母は病院での職を失い、エリート医師としてのキャリアから転落し、娘を連れて田舎の救急センターに落ち延びる。もともと母にはこの世のあり方全般に対する深い憎しみがあり、祖母との関係もこじれていたが、娘にも愛情を感じられず、関係はぎくしゃくしていた。そして、睡眠薬を常用するようになり、自殺を試みたりもする。「生きていたくなかったのです。生きようとしない母の乳を(生まれた娘に)与えたくなかったので」と、彼女は自分で説明している。

娘はこの母に寄り添ううちに関係が逆転し、幼いながらもむしろ庇護(ひご)者のように振る舞い始める。物語は母と娘のそれぞれの立場からの語りの頻繁な交代を通じて進んでいくのだが、娘の側から見れば、この小説は小学生から大学生になるまでの女の目覚めと成長の物語でもある。家庭環境が困難だっただけではない。旧ソ連時代の厳しい抑圧の下、隷属と自由の間で生き方を探し求める若い魂の記録にもなっている。

このすべての人間ドラマと並行して展開するのが、一九四〇年にソ連に組み込まれて以来、ブレジネフの死去、チェルノブイリ原発事故、ゴルバチョフの登場とペレストロイカ、そして最後には悲願の独立へと至るラトヴィア現代史の流れである。そしてメルヴィルの『白鯨』や全体主義社会を風刺したオーウェルの『一九八四年』のテキストがちりばめられ、イェセという名前の(明らかにイエス・キリストを暗示する)両性具有者も母娘の生活に深く関わってくる。

戦後ラトヴィアの複雑な歴史は、日本からは遠いので、理解しにくい面もあるだろう。しかし、現代社会における女たちの生きにくさと、そんな状況にもめげずに生き続ける姿を描いているという点では、国を越えて響き合うところが少なくない。最近人気が高い韓国の女性文学にも通じるものがあると思う。ここで男たちの影は薄い。男たちはいつでも女たちを頼りに生きているのに、女たちの抱えた問題には無関心なのだ。ちなみに、この小説の娘の生年月日は著者と同じである。どこまで自伝的要素が盛り込まれているのだろうか。
ソビエト・ミルク: ラトヴィア母娘の記憶 / ノラ・イクステナ
ソビエト・ミルク: ラトヴィア母娘の記憶
  • 著者:ノラ・イクステナ
  • 翻訳:黒沢 歩
  • 出版社:新評論
  • 装丁:単行本(266ページ)
  • 発売日:2019-09-13
  • ISBN-10:4794811330
  • ISBN-13:978-4794811332
内容紹介:
緊張緩和から共産圏崩壊にかけての時代を、ひと組の母と娘の物語を通じて圧倒的迫力で描き出す、ラトヴィア文学の傑作!

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初出メディア

毎日新聞

毎日新聞 2019年10月13日

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