内容紹介

『大嘗祭と古代の祭祀』(吉川弘文館)

  • 2019/11/12
大嘗祭と古代の祭祀 / 岡田 莊司
大嘗祭と古代の祭祀
  • 著者:岡田 莊司
  • 出版社:吉川弘文館
  • 装丁:単行本(351ページ)
  • 発売日:2019-03-15
  • ISBN-10:4642083502
  • ISBN-13:978-4642083508
内容紹介:
「大嘗祭」の本義とは。「平成大嘗祭論争」の中心学説『大嘗の祭り』を再録し、その後の研究成果を集成。新たな大嘗祭論を提示する。

令和の即位と改元、そして大嘗祭へ

平成最後の日の夕刻、退位の礼が皇居正殿松の間で行われた。静寂のなかで御前を歩む靴の足音が響くなか、厳粛な所作がつづく。天皇の地位に即(つ)く代替わりのはじまりを「践祚(せんそ)」と呼んできた。これは皇位を象徴する神器を受け継ぐ儀式、剣璽渡御(けんじとぎょ・剣璽などの承継)を可視的に行うことであり、これをうけて今秋、即位の礼(令和元年十月二十二日)と大嘗祭(十一月十四日夜から十五日の明け方)の斎行が予定されている。天皇の退位(譲位)は、文化十四年(一八一七)光格天皇いらい二〇二年ぶりという。

退位と即位の一連の儀式には、侍従らによって浅く頭を下げる小揖(しょうゆう)の作法のあと、剣璽が奉持され、白木の案に置かれた。こうした細かい所作までは歴史の記録に残されにくい。

六年前、大学院演習に参加する院生の皆さんと一緒に、貞観の『儀式』を素材に、天皇へ災いの有無を奉告する「御体御卜(おおみまのみうら)奏上儀」を映像で再現した。その式次第は、記録で確認できる奏上の言葉やオオと応答する称唯(いしょう)などはわかるのだが、その儀式をつなげる所作については、不明なところが少なくない。結局、宮中祭祀や白川・吉田神道の系譜をひき、近代に完成する祭式作法に頼らざるをえない。現代の洋装による所作も、古代から受け継がれてきた揖の作法に流れを汲むものであろう。

天皇に伝来した御鏡(賢所に奉斎)と剣璽の三種神器は、長い天皇の歴史のなかで盛衰をたどってきた。八岐大蛇(やまたのおろち)の尾から出現し、熱田神宮に祀られてきた草薙剣(くさなぎのつるぎ)の形代は、源平合戦のときに、壇ノ浦において安徳天皇とともに水没し、源義経はその責任が問われることになる。その後継の御剣が、いまTV中継のなかで錦に包まれて顕れ、令和の代替わりにあたり、次代の天皇へと動座する。天皇の歴史の断面が可視化されてゆく。

皇居の奥深くで、国民のために安寧(あんねい)を祈られてこられた上皇陛下。元旦の四方拝から大晦日の大祓・御贖(みあがもの・節折(よおり)ともいう)まで、年間約二十の祭祀がつづけられている。ご高齢のなか、厳しい宮中祭祀を「内」において不断につづけてこられたことに対して、感謝の気持ちがあふれてくる。古代から現代へ至る宮中祭祀の歴史については、ことし一月に刊行された編著『事典 古代の祭祀と年中行事』のなかで、その経緯が詳しく論述されており、編集の苦労の思い出とも重なり、ご高齢のご退位に安堵感が満ちてくる。

このあと、年越しならぬ元号越し。普段は西暦派の若者たちも、渋谷などの町中で、新しい時代を予祝(よしゅく)する「令和」の元号を唱和する。近代以降は、天皇崩御と自粛をうけて元号が改められており、こうした祝賀の光景は、史上はじめての事例であろう。新しい歴史の感覚を見た。

皇位継承をめぐって平安時代末期、二人の天皇の在位が確認できる。源頼朝が挙兵した治承四年(一一八〇)から文治の年号まで、養和・寿永・元暦と毎年のように代始・飢饉などによる改元があり、頼朝は平氏の都落ちまで、養和・寿永の元号を認めなかった。平氏は安徳天皇とともに三種神器を奉持して西国に逃れたため、後鳥羽天皇は神器を所持しないまま即位された。二人の天皇が在位された異例の事態のなか、後鳥羽天皇の即位にあわせて、大嘗祭の斎行は不可欠のことであった。

その後、承久の乱によって鎌倉側から在位を拒否された仲恭天皇は廃帝となる。践祚後、わずか二ケ月余りで即位儀・大嘗祭をへずに退位された。『帝王編年記』は大嘗祭斎行以前に退位されたことから、「半帝」と呼んだと伝える。

このあと、皇統は南朝・北朝に分かれ、南朝は三種神器を受け継いで吉野に朝廷を立てて正統性を主張したが、大嘗祭の斎行はなかった。北朝側はこれに対抗する意味でも、大嘗祭の斎行につとめた。ただし、北朝も崇光天皇のときのみは、観応の擾乱によって斎行できなかった。このように中世になると戦乱の影響により不斎行の事態が生じた。

中世最後の大嘗祭は、文正元年(一四六六)後土御門天皇のときである。応仁の乱以後は九代にわたり斎行できず、東山天皇のときと、一代おいて桜町天皇から現代に至っている。平安時代からつづいた御禊(ごけい)行幸と「標の山」は、中世後期を最後に廃絶する。大嘗祭の祭祀は外に見せることが許されない儀式であったが、「標の山」の山車(だし)は悠紀(ゆき)・主基(すき)の国民数千人が熱狂して曳(ひ)き回される飾り物であり、上皇から庶民まで見物する神賑(かみにぎ)わいであった。その後継は近世城下町などの都市祭礼に曳き出され、これが三年前には、ユネスコの世界無形文化遺産に祇園祭の長刀(なぎなた)鉾など「山・鉾・屋台行事」三十三件が指定されたことは記憶に新しい。

大嘗祭は、近代にも大きな変革に遭遇した。明治新政府は、神代いらいの伝統保持と身分制を解体していく革新の二つの方向性を包みこんで出発した。明治天皇の大嘗祭では、祭祀に供奉する随員に、参議の西郷隆盛・板垣退助・大隈重信ら、かつての下級士族が加わることに象徴的である。一方では近代以前まで、神代いらいの負名(なおいの)氏族が奉仕することが貫かれてきたが、この方針は全面的に否定され、祭祀勤修(ごんしゅ)に腐心することになる。

大嘗祭の学問的論議は昭和に現出する。戦前まで、神祇に関する学問は、「敬神論」が優先されていたが、戦後はこれが否定された。このなかで、昭和の大嘗祭にあたって折口信夫(しのぶ)は神座(しんざ・寝座)の用途をめぐって秘儀説を主張され、戦後この学説は無批判に拡散していった。「平成大嘗祭論争」では、拙論である神事の中心は神饌供膳(しんせんきょうぜん)の作法を重儀とした見解が一応の了解をえることができた。あわせて、平成に入ると古代天皇祭祀と神祇への理解も深められていった。そして令和へ、いまでは隔世の感がある。今後も伊勢神宮の倭姫命(やまとひめのみこと)から日本武尊(やまとたけるのみこと)へ、吉田兼倶(かねとも)から神職へと伝えられた言葉「慎みて怠ることなかれ」を旨に、学問に対して真摯に向かい合っていくことを大切にしたい。

大嘗祭は、新嘗(にいなめ)祭と同じく秋の収穫を感謝するとともに、山や川の自然が鎮まるようにと祈念するもので、日本列島に生きる人々の願いが込められている。稲の祭りであることは当然であるが、災害・飢饉対応の粟(あわ)の祭りが付随してきたことは注目しておきたい。今般の即位にあたり、皇居一般参賀には外国人も多く参加したという。大嘗祭も外国人にも理解できるように説明に努めなければならないだろう。

[書き手] 岡田 莊司 (おかだ しょうじ・日本神道史)
大嘗祭と古代の祭祀 / 岡田 莊司
大嘗祭と古代の祭祀
  • 著者:岡田 莊司
  • 出版社:吉川弘文館
  • 装丁:単行本(351ページ)
  • 発売日:2019-03-15
  • ISBN-10:4642083502
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「大嘗祭」の本義とは。「平成大嘗祭論争」の中心学説『大嘗の祭り』を再録し、その後の研究成果を集成。新たな大嘗祭論を提示する。

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