前書き

『建築の聖なるもの: 宗教と近代建築の精神史』(東京大学出版会)

  • 2020/01/31
建築の聖なるもの: 宗教と近代建築の精神史 / 土居 義岳
建築の聖なるもの: 宗教と近代建築の精神史
  • 著者:土居 義岳
  • 出版社:東京大学出版会
  • 装丁:単行本(400ページ)
  • 発売日:2020-02-03
  • ISBN-10:4130611399
  • ISBN-13:978-4130611398
内容紹介:
19世紀末から20世紀にかけて,宗教学から生まれた「聖なるもの」という概念が,建築の意味をどう変容させたのか.フランス革命に端を発する,国家による空間管理,文化財学・博物館政策の展開から,20世紀の教会建設運動や先進国首都の都市計画まで,宗教と建築をめぐる近代固有の関係を明らかにする.
2019年4月にフランスのパリで発生したノートルダム大聖堂の火災は大きなニュースとして世界各地で受け止められた。12世紀後半にはじまるこの建築は、幾多の社会変動のなかで建物の意味を変化させてきた。時代がゆれうごく今、この建物にまつわる歴史が私たちに問いかけるのは、21世紀における人間社会と建築とのかかわりなのだと著者は言う。ノートルダム大聖堂の歴史から説き起こされる宗教と建築の精神史へ、本書は読者を誘う。

はじめに パリのノートル = ダム

パリのノートル = ダムはカトリックの司教座聖堂すなわちカテドラル (大聖堂) であった。2019年4月15日、そこで火災があった。木造小屋組が焼け落ちた。石造ヴォールト天井も一部崩落した。修復工事に起因する漏電によるものとされている。文化財関係者たちはそもそも修復事業のための国家予算が不足していたと指摘している。それが遠因ならば、今回の火災のせいでさらに大規模な修復が必要となったのは皮肉なことであった。

そもそも12世紀後半に司教モリス・ド・シュリが前身建物にかえてカテドラルを建立したことがはじまりである。やがてゴシックなる様式概念もできてくる。そしてフランス革命において国有化されたことが、今日のありようを決めた。厳密にいえば国有化された時点で教会施設ではなくなっている。むしろそれは国が所有し管理する多目的施設のようなものとなった。ナポレオンは1804年にここで戴冠している。その冠はローマ教皇の手から授けられたのではなかった。このことも政教関係の複雑さを象徴している。そもそも彼が19世紀の政教関係を決定づけていた。彼が教皇ピウス七世とのあいだでとりかわしたコンコルダ(政教条約)は20世紀初頭まで有効であった。それがカテドラルをめぐる文学や建築の枠組みとなった。そこから逆に、その文化的な価値が新たに形成される。こうしてその意味は錯綜していった。すなわち火災がダメージを与えたのは12世紀の原像なのか、19世紀に与えられた事後的な意味合いなのか。力テドラルは何を担うモニュメントなのか。

反カトリックの共和主義者ヴィクトル・ユゴーは『ノートル = ダム・ド・パリ』 (1831) という文学の力により、カテドラルをフランス国民の共有財産にした。かつてカトリックのものであった教会施設を彼はロマン主義的なイマジネーションにより脚色した。そればかりか小説そのものがカテドラルにまつわる国民的な共通体験となった。この体験が建築をいわば脱宗教化させた。それは共和国の文化遺産ともなった。象徴としてはカトリックに聖母マリアやその他があるように、共和主義にもマリアンヌ像などがある。そうした範疇にカテドラルがコンバートされたのであった。今日でも多くのツーリストがカテドラルを訪れるのは司教ではなく作家のおかげなのだ。

フランス19世紀の建築家にして修復家ウジェヌ・ヴィオレ = ル = デュクもまたこの教会を修復しつつ (1845年から1863年まで) 、そこから科学崇拝と合理主義の視点からの建築理論を演繹した。そうしてゴシック建築の普遍的価値を導いた。彼は必ずしもカトリック時代の価値を強調したのではなかった。また眼前にある建築がそれぞれの時代のレイヤー構造をなしているとは考えなかった。中世人たちも抱いていた合理主義という価値観が、中世固有ではなく普遍的に作動するからそれを信じた。そういう意味では彼の合理主義は、時代を超越した普遍的な一種の理想主義であった。しかし他の場所からみれば、それも彼自身が生きた19世紀の価値観であることを免れない。だからこの修復建築家もまた一つの歴史的な部品となった。このカテドラルが神聖なものならそれはアンタッチャブルでなければならない。しかし創作を信じる人びとからは空想的なプロジェクトまでもが提出される。それが彼の独創でもあった尖塔に集中しているのは皮肉なことだ。尖塔はカテドラルにふさわしいものとして創案され建設された。その代替物を考案するコンペはそもそも19世紀的な課題であるといえる。

ユゴーやヴィオレ = ル = デュクによるノートル = ダム再評価は、19世紀的な文化の国民的共有とか、合理主義の普遍性といった理念に導かれていた。それらは政治的な文脈からすれば共和主義的な理念に他ならない。だから共和国大統領は、すぐれて共和国の遺産としてのノートル = ダムを修復すると宣言したのであった。カトリック教会であったことは否定されないものの、それは文化遺産であることの意味の一つとされる。理性 (合理主義) と宗教の再統合のなかで、宗教は文化という名のもとに理性の下位に従属するものとなる。大統領はさまざまな思惑からか5年後の再建を主張した。しかし建築や修復の専門家たちのなかにその宣言を現実的なものとして受け取るものはいない。それでも企業や富裕層から膨大な寄付金がただちに集まった。パリのノートル = ダムだけではなく地方の教会にも配分されることも検討されたという。それについて、パリ市がとやかくいわないのは立場をわきまえているといえる。革命において国が接収したからにはその保存修復は国の責務なのである。他方で、一連のテロやグローバル化を告発するジレ・ジョーヌ運動が共和国における国民統合を動揺させている。19世紀において国民的統合を担う役割を果たしたノートル = ダムが火災にあった。企業はその修復を願って寄付をする。しかし貧困層を無視していると批判される。富裕層と貧困層が憎しみあう。国民は統合されるどころか分裂しはじめる。

フランス政府が提案した再建コンペが、19世紀の修復工事に対する代替案を求めるかっこうになっているのは象徴的である。すなわちテーマは19世紀のカテドラルなのである。そしてそこで気づくのは、ナポレオンはもちろん、ユゴーやヴィオレ = ル = デュクがその文化的価値を構築したのは、1905年の政教分離法以前であったという事実である。

すなわち過渡期的なのである。そもそも一般的に、ゴシックの教会は未完のモニュメントだといわれている。さらに様式としてもこのカテドラルは初期ゴシックの最後にして盛期ゴシックの直前である。完成直前の様式なのである。そのことがヴィオレ = ル = デュクをして過剰な修復にのめり込ませたのかもしれない。近代のモニュメントとだしても、国家と教会が妥協をしていた19世紀の産物なのであった。政教分離法により両者が完全に決裂した20世紀のものではない。しかしこの過渡期的な性格、いまだ到達していない感覚が、すぐれて20世紀的な概念である「聖なるもの」への扉を開いたのである。

カテドラルが再建された12世紀、パリ大学も創設されていた。もともと大学はカテドラルの附属組織であったが、この時期に独立したのだ。そこから連動性も見えてくる。中世では神学者トマス・アクィナスが神学の教授であった。数世紀たち、19世紀にカテドラルが修復された。それに続くようにパリ大学では、その神学部が1885年に廃止されて、翌年に高等研究院に宗教学部門が新設された。そこでは一種の批判学問としての近代的な宗教学が成立した。それと対応するかのように在野では前衛思想家ジョルジュ・バタイユが無神学大全によりトマスの向こうをはる。それは護教学問をこえて宗教とは何か、そして「聖なるもの」とは何かを問い続ける近代の設問なのである。

ノートル = ダムは新たな政教関係のなかで、世俗的秩序を担う宗教モニュメントであるという矛盾に満ちたミッションや、歴史的建造物や文化遺産という新たな価値観を担った。そればかりか機能的には教会、儀式場、文化財、ミュジアムなどの役割を果たした。するとそれらを貫通し超越するより上位のアイデンティティが必要になる。フランスの建築史家ジャン = ミシェル・ルニオのいう「19世紀のカテドラル」はそういう意味である。それと同じように、宗教を批判しつつ宗教のある部分を継承し、さまざまな宗派を貫通する普遍的な宗教性を求め、格上げしようとしたのが「聖なるもの」であった。そのために歴史においては普遍的ではないかと思える神秘、陶酔、法悦、恍惚についての近代固有の解釈を示そうとした。革命や近代化が目指した聖俗二元論的な体制は、けっして信仰を否定したのではなかった。宗教学でいう信仰の私事化とは、近代的な意味での個々人の内面という場で信仰はなされるということであろう。哲学者ルドルフ・オットーが人間にはもともと備わっているという意味で「宗教的アプリオリ」であるとした「聖なるもの」は、おそらく近代的な意味での内面に立脚するのであろう。あるいは逆方向に、そうした体験の場としての「内面」が形成されるのかもしれない。それが建築の体験がもたらす感動の源泉なのかもしれない。

火災は最悪のタイミングでさまざまなことに連動してしまった。グローバル経済下の格差社会。人びとを分断する宗教の不寛容。19世紀的修復の顕在化。権力と文化財専門家の不一致。文化財予算の不十分さ。そしてなによりも、修復すべき目標が定まらない。この19世紀的なものが事故により空洞化したとき、それを埋め合わせるのは、まさに中世的なものか、19世紀的な共和主義か、20世紀的な聖なるものか、21世紀的なまったく異なるものか。半円筒の形状をしたヴォールト天井にあいた物理的な空隙に思えたものは、むしろ意味のそれなのである。だから私たちはそこから普遍性を目指した「聖なるもの」の近代を再考すべきなのであろう。そもそもノートル = ダムは過渡期における先駆者であったので「聖なるもの」の洗礼が不十分であった。それはほんとうに普遍的なのか。それとも近代固有の限界のなかにある限定されたものとされるのか。21世紀がもし第三の道を求めるとすればそれは何か。私たちは即答できない問いの前に立たされている。本書が読まれるべき価値はこうしてできてしまった。

[書き手]土居義岳(九州大学名誉教授・フランス政府公認建築家)
建築の聖なるもの: 宗教と近代建築の精神史 / 土居 義岳
建築の聖なるもの: 宗教と近代建築の精神史
  • 著者:土居 義岳
  • 出版社:東京大学出版会
  • 装丁:単行本(400ページ)
  • 発売日:2020-02-03
  • ISBN-10:4130611399
  • ISBN-13:978-4130611398
内容紹介:
19世紀末から20世紀にかけて,宗教学から生まれた「聖なるもの」という概念が,建築の意味をどう変容させたのか.フランス革命に端を発する,国家による空間管理,文化財学・博物館政策の展開から,20世紀の教会建設運動や先進国首都の都市計画まで,宗教と建築をめぐる近代固有の関係を明らかにする.

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